番外編 斜陽街


これは…このバーのある斜陽街という街に関してのお話。
そう言うと、夜羽は少し誇らしそうな、くすぐったそうな笑みを浮かべた。
どうやら、夜羽なりにこの街の事が好きらしい。

テープは静かに再生をはじめた。

「この街も変わるのね…」
老いた女性の声がする。
「ええ」
夜羽が相づちを打つ。
「昔、ここに来た時は、ここだけは変わらないだろうと信じていたものでした…」
「僕もそうでした」
そして、老婆は笑ったらしい。
「そう、あなたもそうだったの…でも、月日はこの街をかえていく…この街は一時的な吹き溜まり…」
老婆は溜息をつき、続けた。
「ここは記憶達の吹き溜まり…」

老婆がたっぷり間を置き、話し出した。
「ねぇ…ここに来る前いつも思っていたの、人には『あの世』がある…でも、物にはあるのかと。壊された物たちはどこへ行くのでしょう…そう思っていました」
夜羽は黙って何かを飲んでいる。
そして、グラスを置く音がした。
老婆は続けた
「ここに来てわかったの。物の行き先はここ…記憶に止まるだけとなった建物達、或いは子供の宝物達…古びれた物達…それらは記憶の吹き溜まりのここにやってくのね…」
微かにネコの鳴き声がした。
「エル、おとなしくなさい…」
ネコがまた鳴いた。
微かな声なのに妙に響いた。
「みんな、記憶は繋がっていましょう…繋がった記憶達がこの街を形作る…この街は記憶の街。夢のような記憶の街…」

「夢…ですか」
夜羽が静かに呟いた。
グラスで氷が崩れたらしい。冷たい音がした。
「夢は記憶のつぎはぎ。記憶の寄せ集めという点では同じかもしれませんね…」
「記憶…記憶達が脳を駆け巡り、疲れたらここにやってくるのでしょう…ふと、誰かが思い出す…その程度の記憶達…セピア色の記憶達…」
「だから斜陽街は広がり続ける。記憶だけの存在になるものがある限り…路地が増えている事もある。何かが増えている事もある…逆に」
「何かが人知れず『見えなく』なっている事もある…」
老婆は溜息をついた。

「私はねぇ…」
氷の入ったグラスを手に取る音。
そして老婆は続ける。
「ここなら誰も傷つけないと思ってここに来たの。ここは何も変わらない。ここならずっと、この想いだけ抱いたまま、静かに存在できると思ったの…」
グラスを置く音は聞こえない。
かわりに、氷の入っていないであろう、別のグラスが動かされ、また、卓上に置かれるのが聞こえた。
「ふぅ…」
と、夜羽が息をもらす。
「ここが変わらないと思ったのは見込み違いでしたか…」
「そう、それは見込み違い。私の見込み違いだったの…ここはゆらゆらと変わり続ける…でも、心地よい揺らぎ…この揺らぎに揺られて、私もいつか消えてしまうような気がします…」
「いえ…」
夜羽が否定する。
「ここは記憶の街とあなたは言う。僕も否定はしない…ならば、誰かが覚えている限り、あなたはここにいる。違いますか?」
老婆は上品に笑った。
「ありがとう。でもね、ここに集まるのは、ここをつくりあげているのは、脳にいるのも疲れた記憶達…もう…」
溜息がひとつ。
「もう、覚えていられなくてもいいの…」
遠くでネコが鳴いた気がした。
「さ、エル。帰りましょう…」

テープはここで終わっていた。

この御婦人がこの街のどこに住んでいて、何をしているのかは知らない。
そういうところだと思うんだ。この、斜陽街という街は…
夜羽はそう言うと、何かを懐かしむように笑った。


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