テープ13 水


「空気と同じくらい身近なもの…それが水」
夜羽は前置きをする。
「これは…妄想より幻想に近いんだけど、気に入ったからここに入れてあるんだ…」

テープは静かに再生をはじめた

テープから、まずは夜羽の声。
「何か頼みましょうか?」
そして女性の声。
「いえ、この水一杯で十分ですわ…」
カランという氷の音。
「そうですか…あ、僕はいつもの」
夜羽は何か注文をしたらしい。
「お酒…飲むんですの?」
「スプリツァ程度なら…なんとか」
夜羽は多分苦笑いしている。
「そう…私は水だけ…水が私を生み出したの…」
「水があなたの妄想ですか?」
「人はそうとも呼びますわ…」

「人体の70%近くが水分だといいますが…」
「いえ、私は水から生まれましたの。ですから、一日に何度も水に触れていないといけないんですの…」
「乾燥してしまうんですか?」
「いえ、安心するんです。『ここに帰って来た』という安心感が…」
「生物は海から生まれた、ということは…関係ありそうですか?」
「…あるかもしれません。波の音や潮風も懐かしいものですから…」
夜羽は少し考える。
「失礼ですが、生まれは?」
「都会とも言えない、けれど田舎とも言えない。内地で生まれ育ちましたわ」
「海の側ではない、と」
「そうですね…」

「妄想屋さん、私は別に海でなくても、水ならばなんでも良いんですのよ」
「なんだか、海に回帰する妄想を他で聞いたことがあるんで、つい…でも、水ならなんでも?」
「そう、お湯でも氷でも。でも、一番いいのは水」
その感覚を理解しようと、夜羽が考え込んだ。
女性の言葉はまだ続く。
「水道の水でもいいんですの。流しながら手を触れているだけで、私は幸せになれるんです。ふわふわとした、幸福感に少しの間浸れるんです」
「ええと…生まれた場所に帰って来たという安堵感…ですか?」
「水の中に帰っていく…多分、それほどの幸福はありませんわ…」

夜羽が黙り込み、やがて口を開いた。
「水の中に帰ることを、具体的に表現できますか?」
今度は女性が黙り込んだ。
そして、記憶の糸をたどるように話し出した
「夢を見ました…多分あれが私の生まれた…水に帰ること…」
「では、その夢を聞かせてもらえませんか?」
「私は青の中にいます…上を見るとゆらゆらと揺らいでいるので、青は水の中なのだと思います」
「水の中に…あなたはどのようにいますか?」
「仰向けにして…そう、仰向けで自然な姿のまま、水面は遠ざかっていくのです…」
「沈んでいるのですね」
「黒い魚影が私のまわりを通過して…それでも私は沈んでいきます…青い青い水の中をずっと…そして」
「そして?」
「私は遠ざかる水面から、水の底に視点を変えました…そこには…」
女性は沈黙した。
「すみません。何があったか覚えていないんです…でも、そこが私の帰る場所だと確信して、私は嬉しくなって…嬉し泣きをしながらどんどん沈んでいきました…このあとは思い出せません」
女性は言葉を途切れさせた。

「そもそも、夢を辿るなんていう無茶なことを注文してしまいましたね…」
夜羽は謝罪する。
「いえ、でも…あの水に帰っていく夢を思い出すと、心が休まるんです」
「いつかそんな風に帰っていく、と?」
「そうですね…多くの水たちの中に、私も帰って行けるのかもしれませんね…もしかしたら、今、水に触れているのは、帰る準備をしているのかもしれませんね…」
「最後に聞きましょう。水はあなたにとってなんですか?」
女性が少し考える
「帰る場所、或いは…同志なのかもしれません…私は水から生まれた…水は私の親、そして、兄弟。家族…帰る場所、私の…帰る場所…」

テープはここで終わっていた。

「妄想屋にあるまじきテープ、かな?それとも、ふさわしい、かな?その辺の判断は君に任せるよ」
夜羽が言葉を途切れさせ、やがて呟く
「帰る場所…か」
テープは既に巻き戻され、夜羽はテープを仕舞い込んだ。


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