テープ25 消毒


「このテーブルだって、誰が触れたかわからない…」
夜羽は椅子を指差し、
「君のその椅子だって、誰が座ったかわからない…」
テープの再生ボタンが押された。
「これはそこから発生した妄想…」

テープは流れる。

「徹底的ですねぇ…」
まず聞こえたのは夜羽の声。
「この位しないと落着かなくて…」
客の声。若い男。神経質な感じもする。
「椅子、卓上、空のグラスにワインの瓶まで。アルコール消毒とはね…」
なんともはや、と、夜羽がつぶやき、続けた。
「そのアルコールスプレーはいつも持ち歩いてるんですか?」
「はい、どこでも消毒できるように、持ち歩いています」
「そしてその手袋も毎日着用…ですか?」
「これなしではあちこち触ることが出来ないんですよ」
少し間を置き、客が言った。
「不潔な気がするんです…誰が触ったかわからないから…」

「ほぅ…なるほど」
興味深そうに夜羽が呟く。
「ここだって、清潔な人ばかりが来ているわけじゃありませんからねぇ…」
「自分の知らない人が触れた。それだけで十分消毒に値しますよ」
夜羽が溜息、そして続ける。
「なんというか…よく生活できますねぇ…」
「まぁ、ある程度の妥協は生きている以上必要です。でも、自分で出来る限りのことはします」
「それが手袋とアルコールスプレー…」
「他にも色々ありますけど…あなたの目からすればそのくらいでしょう」
ふーむ、と夜羽は少し唸り、
「では、どうして他人の触ったものは消毒しないといけないのですか?」
「不潔だからですよ」
「『他人』はどうして不潔なんですか?」
客は答えた。
「…『他人』がどうして不潔なのかよりも…むしろ、触れた場所から他人の悪いところが流れ込んで来るようで…とても嫌なんですよ…」
静かに沈黙が降りた。

「生きて行動をしている限り、何かに跡を残している」
客が切り出し、続ける。
「つけている跡には、そのつけた人の性質、ことに悪い性質がついているような気がするんです」
「…悪い性質を跡に残しつつ、生きている?」
「悪い性質を排泄しつつ、人は生きているんです」
「なるほど、ではこんな感じですか?」
ちょっと間を置き、夜羽がまとめる。
「人は生きている限り、良い性質・悪い性質を持っている。そして、生きている限り、行動し、行動の跡をつける。その跡には、人が持つ悪い性質を排泄していっている…と」
「鳥が飛びながら糞をするようなものですよ」
「ふむ…で、その排泄されたものに触れるのが嫌で…消毒するわけですか」
「もう、その他人がいたという跡も残さずに…消毒したいですね…もう、僕のこの行動は…」
少し客は言葉を区切り、ゆっくりと言葉を綴った。
「儀式ですよ…浄化の儀式…」

「嫌なタイプの人間とは、空気を共有するのすら嫌なんですけどね…」
客がぼやく。
「ふむ、そんなタイプの人間と同じ場になることも生活していくうちにはあるでしょう?」
夜羽が問う。客は答える。
「出来るだけ接する個所を減らす…呼吸は最低限にする…触れた場所はよく洗い、消毒する…過剰かもしれませんけど、僕にしてみれば、これでも妥協しているんですよ…」
「その人の悪い性質がうつらないように洗って消毒する、と…」
「そういうことになりますね」
多分客はニコリともせずに言い放っているに違いない。

「これが最後の問いになると思いますが…あなたは、自分が清潔だと思っているのですか?」
「いえ」
客は一言で否定した。そして、
「僕が清潔なのではなく、他人がとても『不潔』なものを残していっているだけなんです。僕はそれが耐えられなくて消毒している次第なんです」
「なるほどね…」
夜羽は納得し、
「今日はどうもありがとう。おかげでいい話が聞けましたよ」
と、礼を言う
「いえ…では」
椅子の軋む音。客が席を立ったらしい。

録音はここで終わっていた。

「すごくお節介なこととは思うんだけどさ…このお客さんって、電網空間向きだと思うんだ…」
夜羽は巻き戻しをしながら呟く。
「あ、でも、電網空間の方がある意味跡がくっきり残っているかな…でも、とても清潔な空間だとは思うんだけどね…こればっかりは本人の意思かな…それから…」
テープの巻き戻しが終わった。
「このお客さんは、他人を好きになることが出来るのかなって…ちょっと思ったんだ…」
お節介だね、と夜羽は苦笑いした。


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