テープ26 過去


「事実がある…君がそこにいるという事実。僕がここにいるという事実…そして…」
夜羽はテープをセットした。
「ここに至るまでにそれぞれの『過去』があったという事実…」
レコーダーは再生ボタンを押され、
テープはさらさらと流れた。

レコーダーから夜羽の声がする。
「では、あなたのお話を聞かせていただけませんか?」
そして再生される客の声。
「私の…?」
「そう、あなたのお話です」
「私は何も話を持っていません」
「それでも、何か話したいことがあるからここに来たんでしょう?」
この、三流の妄想屋に、と夜羽はつなげた。
「私は…ここに『来た』?ここに『いた』のでなく?」
「そう、あなたはここに『来た』のです。バーの扉を開け、妄想屋の僕を見つけ、この席についたのです」
「いやぁああぁ!」
客が悲鳴を上げた。
「それ以上、私の『過去』を詮索しないで!!」

夜羽は飲み物を注文した。
ちょっとして卓上でコトンと音が2回した。
「どうぞ。落ち着きますよ」
無言の客。間を置いて、のどを鳴らす音がかすかに聞こえる。
機を見計らって、夜羽が話し出す。
「僕は探偵じゃないし、刑事でもない。あなたの『過去』を詮索する気はありませんよ」
「わかっています。でも…私の『過去』を…ほんの少しの『過去』でも…覚えていられたりするのは辛いですね…」
「辛いですか…」
「はい…」
客は続けた。
「私は『過去』を消そうと必死なのに…なんでみんな私の『過去』を覚えていようとするのかしら…」

ふーむ…と、夜羽は少し唸り、
「昔…何かあったのですか?」
と、問う。客は答える。
「昔なんてないわ。私に『過去』はないの…私が可能な限り消してきたから…ない…はずなの…」
「なるほど…で、具体的に『過去』を消す方法とは?」
「私が作ったものはすべて壊す。私は自分が行動してきたことをすべて忘れる。私は生きてきた記録をすべて消す…」
「自分の跡をつけないように生きているんですね」
「そういうことになるわね…でも…」
「でも?」
「でも、なんだか大きなノートを必死で消しゴム消ししているみたい…どんなに消しても残ってるの…」
「ふーむ、消しゴムで広範囲を消すと確かに跡とか、消し残りは残りますねぇ…」
「どんなに私が頑張っても…全部は消えてくれないの…」
客は寂しそうにポツリと言った。

「あるいは…私は私の足場としていたものを、一つ一つ捨てていっているの…」
「たとえば…」
夜羽が少し考え、話し出す。
「あなたはある足場に立っている…『現在』という足場だ。あなたが否応無く『未来』へと足を進めた時、その『未来』という足場は『現在』に姿を変え、『現在』だった足場は『過去』へと姿を変える…あなたはその、『過去』となってしまった足場を、出来る限り捨てていっている…と」
「ええ、そういうことになりますわね…だから…振り返ると、私の道程はわからない…真っ暗なはずなの…」
「はず、ですね…」
「でも、『現在』に私が立っていること…もしくは『過去』の残骸は存在しているの…誰かがそれを見る。誰かがそれを記憶する。私にはそれが耐えられないの…」

少しの沈黙。夜羽が話し出す。
「ではどうして…そこまで『過去』を消したがるのですか?」
「なんでなのかしら…気がついたらそうなってたの…」
「『過去』を消すに至った、『過去』もない…と」
「ええ…でも…『過去』を消すことによって…何かいいことがあるのだろうから、私は『過去』を消しているの…そうだと思うの…何だか、辛かったようなことがあったのかもしれない。でも、私にはわからないわ…」

テープはここで終わりだった。

「不完全であることを知っていても、彼女は『過去』を消し続ける…」
夜羽はテープを巻き戻す。
「このテープを収録した後、彼女にテープの公開について聞いたんだ。そしたら…『私はそんな事をしてはいません。私はそこに話を録音なんてしていません』との答えが返ってきた…」
夜羽は巻き戻されたテープを取り出す。
「これは彼女の『過去』の残骸…彼女が忘れた『過去』の残骸…でも、彼女のものだと証明する手立ては何一つないんだけどね」
そして、彼女のテープは多くのテープと一緒に仕舞われた。


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