テープ29 風


「ここは室内だから風なんて吹くことはないけど…」
夜羽が続ける。
「人とすれ違った時に、わずかに風が生じる時はあるよねぇ…」
夜羽は再生ボタンを押した。

テープはさらさらと流れ、やがて静かにバーの音が聞こえる。
グラスの触れる音、誰かの足音、テープレコーダーに入るか入らないかの談笑の声。
「さて、話していただきましょうか」
近くで聞こえる夜羽の声。
「…あなたなら、話しても大丈夫ですね…きっと…」
客の声が入る。
「僕なら大丈夫ですか…さて、なぜでしょう…」
「あなたからは、嫌な『風』を感じませんもの…」
「『風』…」
「私が話したいのは、その『風』のことなんです…」

夜羽が言葉を選び、発言をする。
「嫌な『風』と言いましたね…」
「はい」
「嫌な『風』とはどういう『風』ですか?」
「ええと…それより前に、私の考えている『風』について話した方が早いかと…」
「いいでしょう。では、どうぞ」
客はしばらく考えた。そして、イメージを言葉に変換して紡ぎ出す。
「空気は、伝達が出来ます。基本的なのは音声や電気の伝達ですけど…他にも伝達が出来るんです…」
「何の伝達が出来ますか?」
「性質の伝達です。近くにあるものの性質ならば、空気はそれを伝達することが可能です。その伝達されたものを受容出来る出来ないはありますけど…私は性質の伝達を受けることが可能なんです。私はそれを『風』として、感じるんです…」
「あなたの感じる『風』は、空気のめぐりで起きる風とは少し違う…と」
「似ているから私がそう表現しているからであって…ちょっと違うものだと思います…」
「なるほど…」
夜羽は少し納得したらしい。

夜羽が問う。
「では、あなたは『風』をどのように感じますか?普通の風と似て非なるもののようですが…」
客は感覚を思い出そうとしているらしい。
「言葉にするのは難しいですか?」
「いえ、可能です」
それから客はちょっと考え、言葉にした。
「人とすれ違う時…あるいは、人と向かい合った時…その人の性質が、私の頬を抜けていくんです…」
「頬を抜けていくのが、あなたの言う『風』だと…」
「はい…いい性質を持った人からは暖かい『風』が、悪い性質を持った人からは悪寒の走るような『風』が空気を伝って流れてくるんです…」
「なるほど、『風』が頬を撫でていくわけですね」
「そういうことです」
客は肯定した。

「大体…」
「あ、はい?」
夜羽が不意に切り出したので、客は虚をつかれたようだった。
「失礼。大体、悪い『風』を持っているのはどんな人ですか、と聞きたかったのですが…」
「はい、ええと…」
客が考えている。夜羽は待っている。
「障害者、奇異な風貌をした人、酔っ払い、あとは…時たまに普通の外見をした人…そんなところですね」
「外見のよくない人が多いようですね…」
「きっと外見情報も『風』の伝える性質の一つだからですよ。或いは…」
「或いは?」
「外見だけで判断をしてはいけないといいますけど、外見も判断基準の一つだからなのではないのでしょうか…だから、大方外見の悪い人がよくない『風』を運んでくる…と…」
「それがあなたの考える『風』なのですね」
「はい。私はいつも『風』を感じて生きています…」

テープはここで終わっていた。

「僕の知らないことはたくさんある。僕の感じえないこともたくさんある…」
夜羽は呟く。
「その人にしか感じえないこと。僕はそんなこともサンプリングしている…そして人はそれを…」
夜羽が口の端だけで笑ったような気がした。
「妄想と呼ぶんだ…」
テープは巻き戻され、沈黙していた。


妄想屋に戻る