テープ34 戦い


「人間は靴を履いた獣だと言ったのは…だれだったろう…」
夜羽は思い出そうとしたが、やめたようだった。
「獣であれば本能に『戦い』がある…」
レコーダーの中でテープが廻っていた。
「…妄想とは言い難いかもね…」
夜羽がポツリと言った。

トントンとすぐ近くで何かを叩く音がした。
ブツッと途切れ、再び再生が始る。
「…いいでしょう。録音されています」
夜羽が録音されているか否かのチェックのための音だったらしい。
「では、話してもらえますか?」
客が話し出したようだった。
「僕は『戦い』たいんです…『戦い』の中に身を投じたいのです…」

ふむ、と夜羽が何かを納得し、
「『戦闘』を美化した小説や映画はいっぱいありますがねぇ…」
「『戦闘』じゃありません『戦い』です」
客は少し語気を強くして否定した。
「…『戦い』でも『戦闘』でも似たようなものだと思いますが…あちこちで美化されていて。『戦い』に、自分の主義にのっとり殉じる戦士たち…とか」
「僕はそんなものは要りません」
「ほう…」
夜羽が感嘆し、問う。
「では何故『戦い』たいんですか?」
「傷つけ、傷つけられるため」
客はきっぱりと言い放った。

「いいでしょうか?」
と、夜羽が問う。
「はい」
「『戦闘』と『戦い』の違いは?」
客は淡々と答える。
「『戦闘』よりも『戦い』は原始的です。『戦闘』には理屈がある。『戦い』にはそれがない」
「なるほど」
「僕がほしいのは理屈のついてまわる『戦闘』ではなく、純粋な『戦い』です」
夜羽はちょっと考え込み、
「傷つけ、傷つけられるため…でしたね」
「はい。僕は傷が必要なんです。そのために『戦い』は必須なんです」
「傷が?」
「僕は僕であるために痛みと傷を『戦い』で得なくてはならないのです」
「それはあなたの思想ですか?」
「いえ」
客は否定し、続ける。
「僕の本能です」

少しの沈黙が降りた。
夜羽が感覚を理解しようとしているらしい。
やがて夜羽は口を開いた。
「何故痛みや傷が必要なのか、話していただけますか?」
客はちょっと考え込み、
「上手く言えませんけど…自分の境界を作るため…」
「自分の境界?」
「はい。自分はここまで、あとは自分ではありませんという境界を…」
「ふむ…」
夜羽は少し感覚をつかめてきたようだ。
客が言葉を選びながら続ける。
「痛みがないと、自分と空気や物、他人との境界が、ボウッとして溶け込むような気がするんです。だから、自分ではないもので、自分が傷つく」
「だから『戦い』が欲しいと…」
客は肯定した。
「『戦い』の痛みで僕達は自分が自分であることを確認します。この痛みを与えているのは自分ではない人間。或いは、物…」
客が間を置いて虚ろに続けた。
「自分で痛めてはいけないんです…他の対象物から生ずる『戦い』の痛みでないと…」

「『戦い』の比較的少ないこの国に生きているかと思いますが、感想を聞かせていただきたいですね…」
夜羽が訊いた。
「話しましたけど、『戦い』も痛みもないせいで、僕の輪郭が僕の境界がボウッとしているような感覚です」
「毎日?」
「毎日です」
「今でも?」
「今でもです」
「なるほど…」
夜羽が納得した。
「『戦い』が欲しいです…痛みが欲しいです…僕は僕であることを僕は確認したいんです…」
「痛み…」
「僕が欲しいのはそれだけなんです。『戦い』だけなんです。ぬるま湯のような平穏なんていらない…『戦い』に身を投じ、そして死ぬとしても、死ぬ前まで、僕は僕であり、生きていたことが確認できるんですから…」

このあと少しやり取りがあり、テープは沈黙した。

「思うに、甘いものを食べ過ぎて、辛いものも欲しがっているという状況と似ていると思うよ」
夜羽がテープの事後処理をしている。
「やっぱりこのお客は、『戦い』を美化していると僕は思うね…本能と言っているけど、結局、主義主張の一端のような気がするよ…平和呆けに反抗しているだけ…或いはマゾヒストの正当化…」
巻き戻しボタンを押し、しばらくレコーダーは放っておかれる。
「…僕が思うに、多分、本当の『戦い』の痛みは自分を失うことだと思うよ…」
キュルキュルともシュルシュルともつかない音がする。
「でも、僕は戦闘主義者でもマゾヒストでもないので、『戦い』も痛みも勘弁願いたいですね…」
そう言って夜羽は苦笑いをした。


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