テープ45 藤色


僕のコートも藤色に似た色なんだけど…
彼の妄想は、このコートのような色の妄想、
くすんだ藤色の妄想…

テープは再生を始めている。

「景色が藤色になる瞬間を知っていますか?」
「藤色…薄紫色ですか?」
客の問いに夜羽が答える。
「うん…でも、もう少しくすんだ…灰色がかったような…」
「このコートのような?」
夜羽は自分のコートを示したのかもしれない。
「そんな色かもしれません…灰色とも薄紫ともつかないような…」
「曖昧な色…」
「そう、景色がそんな色になる瞬間を…知っていますか?」
「何度か見た時がありますけど…朝と夜の間、夕方ともいえないような時間、そんな時間だったと記憶しています。いかがでしょう?」
「そう、まさにそんな時間です…でも、その時間はもっと、きれいな色に景色が染まるんです…僕が見た色は…くすんだ藤色…景色の全ての色彩が…くすんだ藤色に染まりました…」
「聞かせていただけますか?藤色の景色の話を…」
「はい」
客は短く承諾した。

「都会に暮らしているわけではないのですが…まぁ、僕はビルの谷間に生活をしていると理解してください」
「ふむ、まぁ、ビルの谷間に通勤通学をしている…と?」
「それでいいでしょう…まぁ、その時、僕は帰宅途中でした。いつもの駅で列車を待っていました…」
「時間帯は、日暮れ時…」
「まさに」
客は短く肯定した。
「黄昏時?そう言うかどうかはわかりません。でも…僕の見ている前で、日は徐々に沈み、景色は周りのコンクリートのビル群の色彩とあいまって、灰色がかった藤色に染まりました…」
「日が沈む時ならば、赤く染まりそうなものですが…」
「後になって僕もそう思いました。でも、その時はそれが至極当然のように思いました。ああ、夕闇の群青色と沈む夕日の赤が混じって、さらに無機質のコンクリートの色で、こんな景色になるんだと僕は納得したんです」
「なるほど…言えば、黒と白と紫だけで描いた絵のような景色になった…と、解釈してよろしいでしょうか?」
「まさしく。モノトーンになりきれず、かといって、カラーというにはあまりにも色のない無機質な景色…」
客は多分その時の色を脳裏に描けている。そして、
「その景色の中、僕は一人でした…」
と、言った。

「駅の構内には、誰もいなかったのですか?」
「いなくなっていました。そして、僕は列車が来ない事も理解していました。静かな…僕の立てる音以外存在しない…藤色の街…僕は線路に降りると、ビルの谷間の線路の上を駆け出しました…」
「何のために?」
「藤色の町の『あのビル』には、彼女がいるんです…僕は彼女に逢わなければいけません…逢いたい、それだけを祈るようにつぶやきながら、僕は線路を走っていきました…太陽を背に向けて、鳥篭のようなベランダの並んでいる、『あのビル』を目指して…彼女のいる部屋のベランダの形は覚えています、ビルに白く浮かび上がっているのですぐにわかります…」
「くすんだ藤色に浮かぶ、白いベランダのあるビル…」
「そう、そこに行かなければいけなかったのに…」
客の声は、ここでトーンを下げた。
「轟音がすべてをかき消しました」
「何の音でしたか?」
「特急列車が…駅を通過していく音でした…僕は線路ではなく、駅のホームにいて、ぼんやりと列車を待っていました…景色は忍び寄る夕闇とともに下卑たネオンやイルミネーションが灯り、色彩だけは妙に鮮やかになっていました…」
客は溜息をついた。
「藤色の街は、形だけをそのままに、僕の前から姿を消しました…」
そう言った客の声には、隠そうともしない哀愁の色があった。

「もう一度、藤色の街に出会えたら、僕はまた彼女のいる『あのビル』を目指して走ります…たとえ、それがすべて僕の妄想だとしても…僕は、それだけが真実であるような気がするんです…」
「そう、あなたが想えば、それが真実ですよ…」
「そうですね…」

テープはここで終わった。

先日の妄想と『鳥篭』と線路や鳥篭がダブっているのは偶然なのか、必然なのかはわからないよ。
客の妄想なんて、あまり構ってもいられないからね…
でも、もう一つくらいこれらに絡んだ妄想が有りそうな気がしたんだ…
そしてそれはあった。
番号にしてこの次の妄想なんだけど…
そう言い、夜羽は考え込んだ。何を考えているかはわからない。


妄想屋に戻る