テープ52 場所


『ここ』は場所である。『場所』には『もの』がある。
感覚するしないに関わらず…ね。
何か、『もの』があるんだよ…彼はそう言ったんだ…

空白の再生時間。
やがて、ヅッと音がし、店の中でかけているであろう有線音楽が小さく再生された。
ブルースのようだ。
その音楽より近くで声がする。
「マティーニ、ワン。ギムレット、ワン」
注文の取り付けらしい。そして、本当に近くで夜羽の声がした。
「何か注文しましょうか?」
客は邪気のない笑いを含みながら答えた。
「いいえ。このバーの雰囲気だけで十分です。これだけで十分酔う事が出来そうです」
「酒に弱いとか?」
「いえ…雰囲気に酔うんですよ…ほろ酔いの心地よさのような雰囲気に…」
「なかなか粋な台詞ですね」
「私が本当に粋だと思ったのは…『良質のバーは場所で酔わせ、言葉で酔わせ、美酒で酔わせる』という台詞でしたね。どこで聞いたのかは忘れましたがね」
「ほぅ…」
夜羽が素直に感嘆すると、客が寂しそうにぽつりと呟いた。
「場所…ですね…」

「場所がどうにかしましたか?」
「場所は場所です。場所には何があると思いますか?」
「さて…」
方向性の見えない客の言葉に、夜羽がわからない事を答えつつ促すと、
「場所には、ものがあるんですよ。何もないと思っても、何かしらは…」
と、客は答えた。
「ものとはまた曖昧ですね」
「曖昧ですよ。でも、何かはあるんです」
「例えば?」
「例えば…雰囲気、風、意識、思念…何も感覚できなくても、それらはあるんですよ」
「場所に?」
「ええ、場所に」
客は言葉を区切った。
十分間を置き、客は告げた。
「そのものたちが、時折僕達を振り回すのですよ…」

「霊現象などではなく?」
夜羽が問う。
客はしばらく黙っていたが、話し出した。
「霊現象と位置づけられるものもあるでしょうが、大抵は『場所』が持っている『もの』です」
「それらに振り回される、と…」
「その『場所』が持っている『もの』に感情や行動を決定されてしまうのですよ…このバーなんかは比較的寛大な『場所』です。ある程度の感情や行動も容認できる『場所』です…というか」
「バー自体が、感情を容認するような場所ですからね…」
「まぁそうです。でも、『そうせずにはいられない』ような『場所』は存在します」
がちがちという小さな音が聞こえた。震えで歯が鳴っているらしい。
「あの、狂った場所のような…」

「狂った場所?」
夜羽が聞き返す。
「ええ…大抵の人間は、あれは『まともな』『普通の』『場所』だと認識するのでしょうが、あそこは狂っていました…」
「どんな場所だったか、話していただけますか?興味があります」
「…いいでしょう」
客は深呼吸をした。

「じめじめしたビルの入り口、私はエレベーターを待っています。やがて、文字盤の光が『1』を示すと、私の目の前の扉は開かれます。私は扉の向こう側へ行き、不安定な重力に身を任せながら、自分が変容していくのを感じます…この向こうには、この私ではない私こそが存在をすべき場所である…と」
夜羽は黙っている。客は続ける。
「やがて、扉は開かれます。命の臭いのしないその階を歩くと…音が聞こえます」
「どんな?」
客はきっぱりと答えた。
「電子機器の作動音。音として感知できるかなり高い音です」
そしてこう、続けた。
「その部屋は塵一つなく…整然と並んだそれらは、作動音を立てながら世界へと繋がっていました…」
抽象的な言い回しであるが、夜羽はこれで納得をしたらしい。
「そこは狂っていたのですね」
「その場所は…その音がある所為かどうかは知りませんが、確実に狂っていました。不協和音…抑揚のない旋律…なにより、世界と繋がっているという…妄想…」
「でも…」
夜羽が客の言葉の間に割り込む。
「でもどうしてあなたはまだ、電網系なのですか?」
客は溜息をついた。
「『場所』の『もの』に魅入られてしまったんですよ…」
客は答えた。

ヅッと音がし、テープは空白の再生となった。

一つの事柄がある。感じ方は色々ある。
僕はそれでいいと思う。
それが僕にとっての、かけがえのないものだから…ね。
夜羽はにこりと口の端で笑った。


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