テープ56 天使


人を超えた存在。それはあるいは神。
神と人の間にあるもの。それが天使。
これは、雪の降るある日の事。訪れた人が話してくれたものだ。
夜羽は、そう、前置きをした。

10年の時はゆうに越えてきたであろう、年代物のテープレコーダーが再生をはじめた。
バーのほのかな灯かりの中、テープは回り、ゆらゆらと揺らぐ。

劣化したようなノイズの入る音声の中、はっきりとした声がした。
「僕は、天使でした」
意志の強い、毅然とした声。しかし、どこか、そう作っている節が感じ取れないわけでもない。
夜羽はというと、こういう切り出しには慣れているらしく、至って普通に切りかえす。
「ほう、貴方は天使なのですか」
と。
そして客も返す。
「いえ、僕は天使でした」
と。

「僕はこの雪にのって、天を降りてきました」
「どうして、雪にのってきたのですか?」
夜羽が問いを返す。いつもの彼のやり方だ。
問いを重ねる事により、客からいろいろな事を聞きだそうというやり方。
そして客は答えた。
「雪に、羽根を、一緒に散らす事が出来るからです」
「羽根とは…言わずと知れた天使の羽根ですね。真っ白な…」
「そう、多分想像している、その羽根です」
「散らせるとは?」
「雪と一緒に混ぜて、カムフラージュに出来るんです。天使の羽根は天使の身体を離れると、やがて消滅します、でも、雪と一緒なら散らばる羽根を隠す事が出来るんです」
「木を隠すなら森…ですかね」
「そうかもしれません」
客は笑った。少し、寂しそうだった。

「どうして天を降りてきたのですか?」
夜羽が問い掛ける。
客は躊躇したらしい。戸惑いを含む呼吸が微かに録音されている。
やがて、客の呼吸が整う。
話す覚悟が出来たのだろうか。
客はぽつりと話し始めた。
「いとしい人を追ってきました」
寂しそうに、夢見るように。続ける。
「天使の証を捨てても、あの人に逢いたかったんです」
「よほど、想っているのですね。その人のことを」
「ええ…」
客は苦笑いをしたらしい。

「僕は天使でした…」
「貴方は天使でした」
「天使は神の被創造物を全て同じように愛さなければいけません…」
客は「ふ…」と溜息をつき、
「もう僕は、全てを同じように愛する事なんて出来ません…」
「地上にいる、その人を愛したから…?」
「そう、誰か一人…何か、一つ…神以外に唯一を持っては、天使として失格なのかもしれません」
ここで互いの言葉が途切れた。

そして客がぽつりと
「また、降ってきましたね…」
と、言った。
「ええ、一度やんだと思ったのに…明日は雪かきですねぇ…」
どうやら雪が降っているらしい。
「雪が降る中、立っていると、空に吸い上げられるような気がしませんか?」
唐突に客が切り出す。
夜羽が答える。
「なるかもしれませんが…あまりここから外に出ないので…寒いと尚更ですし…」
夜羽が苦笑した。
客も笑った。そして続けた。
「雪は…わかるでしょう?境界を曖昧にしたり、隠したいものを隠したり出来るんです。冷たいけれど、とても優しいもの。それが雪。或いは慈愛なんですよ…」
そして、椅子と床がすれる音。
「もう、行かれるのですか?」
「ええ、なんだか、こんな場所でも、懺悔をしたような気分です。堕天の罪の告白…僕がしたかった事は、これで終わりです」
「そうですか…」
と、夜羽が納得し、録音は終わっていた。

街に天使は舞い下りた。
或いは彼は堕天使。
いつか、雪の日にでも、空を見上げてみるといいかもしれないね。
もしかしたら、吸い込まれそうに降る雪の中に、千々に散らした天使の羽根も、見えるかもしれないから。
そして夜羽は「羽根のよう軽い」と言われるカクテルを飲み干した。


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