テープ87 曖昧


これをかけてくれと君が頼んだ。
夜羽は黙って指定されたテープを…古ぼけたレコーダーにはめ込んで蓋をした。
「ガチャンッ!」と壊れそうな音がした。
この音も幾度となく立ててきた音なのかもしれない。
音を立てても頑丈なものなのか、テープが廻り始めている。
店内には静かにラジオか何かの曲がかかっている。
音質はよくないが、物悲しいヴァイオリンの音色という事はわかる。

やがてテープは再生をはじめた。

「月がきれいですね…」
「月齢は知らないけど…うん。まぁるい月だ」
夜羽と、もう一人が話している。
店内のラジオの音楽がテープの中からも聞こえる。この時も同じ曲が流れていたのかもしれない。
ふと、話し相手が何かに気がついた。
「夜羽、君いつもここにいるの?」
夜羽はきっと柔らかく微笑した。
そして、自分の中からゆっくりと言葉を捜して話す。
「最近気がついたんですけど…僕はここにいながらどこにでもいるような気がするんですよね…」
話し相手はよくわかっていないようだ。
「それは君の妄想?」等と返す。
「ええと…」
夜羽は慎重に言葉を紡ぐ。自分の感じていることを、より、相手にわかってもらおうとして。
「僕はここにいる。それは、ここが妄想と現実の接する場所だから…妄想を語るお客と、妄想を聞くお客が行き交うところだからここに僕がいる…」
「それは君が妄想屋だから…」
「うーん…妄想屋、それもあるけど…」
夜羽は言葉を区切る。
「僕は…僕というものは…妄想と現実を区切る境界に存在するものではないんだろうかと思うんだ…」

少しの沈黙があり
「まぁ…君が普通っていうのの方が想像しがたいけど…」
「すみません…言葉足らずで…。でも、僕はそういうものなんじゃないかと思うんです」
「境界にいるって奴?」
「そう、妄想と現実が接して…異質なものだからそこには境が生じる…僕は曖昧なそこに『ある』存在なんじゃないかと思うんですよ…」
「言われてみれば、それなりにしっくりくるかも…」
相手が何かを飲んだ。
夜羽も何か飲んだ。そして溜息をついた。
「だから…」
溜息まじりに夜羽が話す。
「だから、妄想と現実の接するところにはいつでも僕がいるんです…それらが離れてしまえば僕はいない。混じってしまっても僕はいない…接したところの境界に僕が…僕は曖昧な境界を渡っているんだろうと思うんですよ」
静かにラジオの音とテープ内のラジオの音楽が絡む。
耳からは別々と捉えているのに、さながら協奏曲だ。
「僕はそういうものだと思う…それでも、僕は僕が何なのかを知らない…」
「君は境界だ。触れることを知らない人間の境界。ひっそりとそこにあらわれ、境界をつくり、触れることを知らない人間にも擬似的な輪郭を生じさせる…」
相手がつづける。
「君は心の輪郭…曖昧なそれを描く旅人…」

「僕はそんな大層なものじゃありませんよ…きっと」

いつのまにかテープは止まって、夜羽が微笑んでいた。
ラジオの曲はピアノの曲になったようだ。
静かな店内。夜羽の指定席。いつものように夜羽は笑っている。
「僕は曖昧な境界の人。きっとそういう人なんですよ…」
そして、テープを取り出した。
「僕に逢いたくなったりしたら、妄想してください。僕はいつでもその境にいますから…」
月明かりの下、夜羽はふわりと笑った。


妄想屋に戻る