怪談:うみ


あなたはここに来てはいけない。

女が、身を投げて死んだ。
私としばらく付き合った女だ。
理由はよくわからない。
ただ、思い当たることは何もなく、
身を投げて、死んだ、らしい。
そうだ、らしい、と、ついてしまうのだ。
死体はまだ上がらない。

そこは自殺の名所とされる崖で、
目撃者もちゃんといた。
彼女がばっちり、落ちるところまで目撃していた。

彼女は本当に、死んだのだろうか。
私はまだ信じられないでいる。
声のきれいな女だった。
子守唄が心地よかった。
それは波の音のようで、
全てがゆらゆらと、
意味を持たなくなるような心地よさだった。

私が眠りに落ちて、目を覚ますまで、
彼女は私のそばにいた。
目を覚ますといつも、
彼女はさびしそうな目をしていた。
すぐに隠してしまうけれど、
ひどい孤独の色彩を、
至って普通と思われる目に隠していた。

私は、特に意味もなく、その崖にやってきた。
後追いなど考えない。
ただ、彼女が何を見たのかが、知りたかった。

崖の端っこ。
とても高いそこに私は立った。
波の音色が子守唄のようだ。
ゆらゆらと、私を揺らしてくる。
あやすように、いつくしむように。
私はすべてがどうでもよくなった。
ああ、とても眠い。

あなたはここに来てはいけない。

不意に、声。
厳しいその声に、私は目が覚める。
私はもう少しで崖を落ちるところだったらしい。
あわてて後ずさりをする。

ため息をひとつして、
ああ、彼女は一人で帰ることを選んだのかと思った。
この海はこんなにも彼女の孤独の色をしていて、
波の音は彼女の歌で、
ゆらぎは彼女の鼓動ですらあった。

のちに。
この崖を撮影した一枚の写真に私は出会う。
崖の下から彼女が手を伸ばしていて、
誰かを誘うようだ。
なぜ私を誘ってはくれなかったのだろう。

今も海の底、孤独の目をした彼女がいるような気がする。
海のそこでは涙は見えない。
けれど、いつか事切れるときは、その腕に抱かれたいと、
彼女に拒絶されても魅入られた、私は思う。

きっと死体は、上がるまい。


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