トラウマカマキリ


彼は、どこにでもいる普通の中年親父だ。
説教くさくて、酒臭くて、
その日その日を会社と家を往復する、普通の親父だ。
親父さんとでも呼ぼう。

親父さんは、昔は、普通のはなたれ餓鬼だった。
いたずらもしたし、虫も捕まえたし、川でも遊んだし、
危険なこともいろいろして、
そのたびに、頑固親父を絵に描いたような、近所の爺様に怒られた。
性懲りもない、普通の餓鬼だった。

親父さんには、怖いものがある。
それは、カマキリだ。
はなたれ餓鬼の時分、カマキリをひょいと捕まえたら、
腹の中で何かがうごめいていたのを見た。
それ以来、カマキリは怖くて、近づくのも出来ない。
触るなんてもってのほかだ。

幸い、カマキリが嫌いなことは、
親父さんの人生に大きく影響したわけではない。
普通の人生を、親父さんは歩いてきて、親父さんになった。
娘が一人いる。
生意気盛りの娘だ。
親父さんがカマキリ嫌いと知って、うごめくその話を聞いて、
娘は、興味深げに聞くと、本を持ってきた。
その本には、カマキリに寄生する虫というのが書かれていた。
親父さんのトラウマは、ここにあったのかと、
わけのわからない恐怖のもとが、乾燥した書物に整然と並んでいた。

後日。
親父さんがカマキリ嫌いなことを知った娘が、
親指のサイズにも満たない、小さなカマキリを捕らえてきた。
親父さんは怖くなかった。
こんな小さいのなら、うごめかない。
親父さんは娘からカマキリを取ると、
外に放した。

相変わらず大きなカマキリは気味悪い。
親父さんはそう思ったが、
寄生されないで恩返しでもすれば面白いと思った。

親父さんは普通の、親父さんだ。
酒を飲み、たまにはへんな夢も見る、トラウマも小さいのを持った、親父さんだ。


戻る