キンセンカ
彼はその町で、
捨て猫のように生きてきた。
親の顔なんて覚えていない。
幼い彼は、
最近になってようやく、
捨てられたということが、わかってきた。
目を開けてはいけないよ。
焼き付けてはいけないよ。
誰の言葉だっただろうか。
すりをはたらき、
盗みをはたらき、
逃げ、隠れ、
孤独を感じるには、
まだ幼すぎた。
彼はある秋の日に。
路地裏に逃げ込んだ。
彼を追う、奴等が走っていくのが見えた。
彼は息を潜めて路地裏に隠れる。
秋の日差しが、少しだけ、
路地裏の奥に降り注いでいるのが見える。
彼はそこを見た。
何かの予感があった。
はたして、
地面に小さな、夕焼け色の花。
見落とされそうな、花。
目を開けてはいけないよ。
焼き付けてはいけないよ。
誰の言葉だっただろうか。
彼はしっかり目を開いて、
小さな花を見つめた。
目の奥に焼き付けるように。
しっかりと。
彼はちょくちょくその路地裏に訪れるようになった。
花は増える。
次から次へと小さな花がつく。
たまには水を与え、
摘むことなく、めでるということを彼は知った。
別れは唐突に訪れる。
花は春を待たずして、
すべて枯れた。
醜い姿をさらして、
花が花でなくなったのを、彼は見届けた。
目を開けちゃいけなかった。
焼き付けてはいけなかった。
幼い彼は、そのことだけを理解した。
追われる日々が続き、
月日はめぐる。
彼は少年になった。
仲間らしい仲間は相変わらずいないが、
一人でそれなりに生きていけるようになった。
ある秋。
彼は町の大きな屋敷のそばを歩いていた。
無用心なら、ちょろまかしてやろうとか、
そういった目的だ。
庭をちらりと覗く。
そこに、女性が一人いる。
留守じゃないのかと思う前に、
彼の目の中の記憶がざわざわという。
女性は花をめでている。
その花は、記憶に、ある。
「あら」
女性が彼に気がつく。
「キンセンカはお好き？」
彼を疑うことのない、無邪気な女性。
こんなお屋敷にいるくらいなら、
疑ってしかるべきことも様々あっただろうに。
その、花があるから？
その、キンセンカがあるから？
この花が無邪気にさせるのだろうか。
「キンセンカはお好き？」
無邪気な女性は尋ねる。
「はい」
彼は答える。
高貴ってこんなに無邪気で美しいものだろうか。
あの花はキンセンカというのか。
彼はそっと目を開く。
女性は微笑む。
目を開けてはいけないよ。
焼き付けてはいけないよ。
誰の言葉だっただろうか。
誰の言葉でもいい。
彼は美しいものを目に焼き付けたかった。
キンセンカと高貴な女性。
柔らかい秋の日差し。
それらは彼の心の奥、
今も焼きついている思い出である。