英雄


あの人は英雄だ。
俺はそう信じていた。

何もかもをなくした俺の前に、
あの人は剣を引っさげて現れた。
「男なら、誰かのために強くなれ」
その一言を鮮明に覚えている。
誰かのために。
何もかもをなくした俺でも、
誰かのために強くあることはできるだろうか。
家族をなくした、俺でも。

誰か、漠然とした誰かという存在に、
あの人は色を付けた。
この小さな村を守るため。
まだ幼かった俺には途方もない広さ。
ここを守れとあの人は言う。
あの人は剣を俺に差し出した。
「強くなれ」
俺はまだ扱いも知らぬ剣を手にして、
しっかりとうなずいたのを覚えている。

あの人は英雄だ。
俺はそれを信じて疑わなかった。

あの人の剣には迷いがなかった。
俺は今でもそう思っている。
あの人の目には、曇りがなかった。
俺は今でもそう思っている。
あの人が世界の中心であるような、
この平和な村の中心であるような。
そんな気がしていた。
幼い俺にとっては、
あの人が命じれば世界が黙るような気さえした。

俺は剣を学んだ。
平和なこの村で、
いざというときに使える剣を。
あの人は剣の腕を磨いた。
それは時折俺をぞっとさせた。
あれは、何かをひっくり返すような剣だと、
俺はあとになって思った。

あの人は英雄だ。
英雄、だったかもしれない。

あの人に女が言い寄ってきたこともあった。
純朴な村娘で、
悪くないなと思って祝福の言葉まで考えていた。
でも、あの人は、結局妻を得なかった。
いわく、
「俺は剣に生きる。剣のさすほうが俺の行く道だ」
それにしてもあんまりだと反論を考えたこともある。
でも、結局何も言葉が出てこないまま、
あの人の背を見ていた。
遠いと感じた。
「所詮、剣の奴隷よ」
あの人はつぶやいた。
剣を差し出したあの日から、
ずっと遠くにいると、感じた。

宝の刀を奪い、逃げたという報を聞いて、
俺はとっさに嘘だと思った。
しかし、それは真実で、
あの人は村を裏切って逃げた。

俺は村を出て、
あの人を追っている。
遠い背中がちらつく。
追いつけたとき、俺はその背を切りつけられるだろうか。
英雄の背中。
俺が追いついていいはずもない背中。
この剣ではかなわないかもしれない。

記憶の中のあの人は言う。
「男なら、誰かのために強くなれ」
あの人は誰のために強くなったのだろう。

聞かなければいけない。
本当に、裏切ったのか。
聞かなければいけない。

今でも、英雄か。


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