電話
左耳から声が聞こえる。
左耳にあの人はいる。
届く、声。
いつもの時間、いつもの場所、
左耳からの声。
心地よく流れる声。
何を語るわけでもなく、
何を押し付けるわけでもなく、
ただ、声は答え、
ただ、声は癒し、
ただ、声は時折愛を語る。
声がエコーして、左耳で鳴り響く。
いつでもあの人がいるような。
遠い遠い空の下のあの人が、
左耳でいつも、くすくす笑っているような。
あるいは、ささやいているような。
距離がゼロ以下になるような錯覚。
あの人がいるような錯覚。
錯覚でもいい、これほど幸せなことが他にあろうか。
左耳の幸福、
それは脳髄を伝わり、世界を少し彩る。
普通の生活への、少しのスパイス。
味気ない普通ということへの、一種の挑戦状。
この左耳の幸福は、誰にも奪えない。
今もエコーしているあの声は、
誰にも渡さない。
受話器を置いて、目を開く。
そこには当たり前の場所。
左耳に幻のようにエコー。
電話は電話としてそこにあり、
左耳に当てられていたという名残すら少ない。
それでも幸せは確かにそこにあって、
今も遠い遠い空の下、
あの人も受話器を下ろしてため息をついているはずだ。
あの人もこんな風に幸せを感じていたのならいいのだけれど。