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獣
これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
どこかの扉の向こうの世界の物語。
森の中の狼珈琲屋で、
狼耳をつけた青年が、コーヒーを入れる。
コーヒーは青年に言わせると、トリップだという。
麻薬とは違うのだろうけれど、
少しだけ危険な香りがしないわけでもない。
危険なのは香りだけ。
店内は、見たとおりのまま、
整っていて、暖かな感じがする。
あくまで、危険なのは香りだけ。
「おまたせ」
青年が、コーヒーカップを差し出す。
中には、濃い琥珀色の液体。
「内緒の地区のコーヒーだよ。めったに出さないんだ」
思わず何が内緒なのか聞き返そうとするが、
「まぁ、飲んでみな」
と、青年は答える。
内緒は内緒らしい。
相変わらずの少し危険な香り。
口に運ぶと、そのにおいが強くなる。
舌を転がるあたたかな苦味。
コーヒーがのどを滑り落ちるときに、
心もすとんと落ちていく感覚を持つ。
琥珀色のイメージに、
落下をしていく感覚。
獣が鳴いていると感じた。
いや、鳴いているのとは違う。
歌っているのだ。
月に狂った狼然り、
終わりの獣然り、
みんな歌っているのだ。
「…って、歌う獣がいるらしい」
不意に、青年の声が届く。
狼耳の青年は、鋭い目を細めて、
「トリップしてたね」
と、言ってのけた。
「この内緒の地区、歌う獣の噂があるんだ」
歌う獣、そんなものを感じたような気がするし、
あるいはトリップなのかもしれないし、
あるいは夢なのかもしれない。
「歌う獣は人のことなのかもしれないと言う人もいる」
狼耳の青年は、話し出す。
「夢を抉られた人が、獣にもなれずに歌うのだとか」
夢を抉られるとは何なのだろうか。
青年は知っているのだろうか。
青年は細かいことは言わない。
そういう性格なのかもしれない。
青年は、笑う。
笑顔の奥に獣が潜むような気がする。
狼耳の青年は、いったん器具を片付けるようだ。
鼻歌を歌いながら、青年は奥へと引っ込んだ。
あとには、少しだけ、
トリップの残り香が危険に漂っていた。