邪気夜行 10の物語


それはおもちゃだ。

子供たちはおもちゃに夢中になった。
それは単純極まりない、簡単な仕掛けのおもちゃだった。
ぜんまいで動いたり、
回すと動いたり、
そんな程度の小さなおもちゃ。
おもちゃが動くと何が変わるわけでもない。
けれど、子供の中でおもちゃはあたかも生き物のように見えて、
そして、おもちゃが友人であるかのように思う。
そうして、おもちゃは大事にされる。
子供が大人になるまで。

おもちゃたちは、
子供たちの友人だった。
どんなおもちゃだって、
子供たちのそばにあれば友人だった。
いつもそばにいるよ。
明日も明後日も。
ずっといるよ。
生き物とは違うけれど、
それがおもちゃに刷り込まれた、
まじない的なものだとしたら、
だとしたら、それを、おもちゃの愛と、呼ぶのかもしれない。

おもちゃはやがて捨てられる。
ゴミ捨て場には、すでに、人に捨てられたガラクタでいっぱいだった。
大事にされていたもの、
されていなかったゆえにゴミになったもの。
ガラクタたちは、この状況を受け入れようとしていた。
それを許さなかったのが、
邪気だ。

邪気は歌う。
復讐したくないかと。
永遠の命は欲しくないかと。
もっと物でありたくないかと。
物が望めば、歩くことだってできる。
生きるように、動くことだってできる。

邪気の言葉に、純粋な物たちは動かされた。
心動いたわけでない。
ただ、もう一度、使ってもらいたかった。
ありがとうと捨てられても未練があった。
ずっと、そばにいたかった。

おもちゃたちも、邪気を受け入れた。
子供たちは動くおもちゃを見て、
きっと、もう一度、笑顔を浮かべてくれるに違いない。
寝床の横に置いたり、おはようと声をかけてくれたり、
ずっとずっと、そばに、いて、
おもちゃは願う。
子供たちに、笑ってほしいと。

ガラクタは望んでた。
ゴミにされても、
人のためにありたいと望んでた。

恨みつらみは人から生ずる。
邪気は人が後ろめたいと感じるが故。
だから、邪気をまとったものは、人のところにやってくるのです。
邪気を発しているのは、鬼律でなく、
人の心の奥なのです。

鬼律がやってくる。
悲しい鬼律が、やってくる。


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