時計台の下


緑は身支度を整えると、
ネットで天気予報を見る。
降水確率はゼロ。
それでも曇り空らしい。傘はいいかと判断した。
そして、最低限の持ち物を確認し、よしとうなずいた。
部屋を出て、玄関へ向かう。
その間の廊下で、智樹とすれ違う。
土曜日だから、智樹の勤めも休みらしい。
「珍しいな」
智樹が声をかける。
「そうかな」
緑は返す。
「楽しそうだな」
智樹はそう言う。
「そうかな」
緑は返す。
「いってこい」
智樹が緑を送り出す。
「いってきます」
緑はちょっとだけ、しっかりと返した。

玄関を出ると、庭。
陽子が庭弄りをしている。
陽子が緑に気がついた。
「あらあら、おめかししちゃって」
緑は眉間にしわを入れてみた。
「だめよ、口元が緩んでる」
陽子はおかしそうに笑った。
「緑もデートするようになったのかしら。そのうち彼女も紹介してね」
「…わかるの?」
緑は、陽子に問いかける。
すると陽子は、目を真ん丸くさせて、
「あらあら、本当にデートだったのね。女の勘も捨てたもんじゃないわね」
などと言い、からから笑った。
緑は憮然として見せた。
それでも、どこか浮ついているように見えるのだろう。
「いってらっしゃい。いい日になるといいわね」
「いってきます」
緑は言い残し、家をあとにした。

駅前行きのバスに乗る。
土曜日の昼間。
乗っている人は少ない。
大学に行くときとは違った感覚。
バスは走る。がたんごとんと。
緑は窓の外を見る。
よく知った町が、始めてみるような感じがした。
住宅街、街路樹、道行く人々。
ぼんやりした太陽の、曇天模様なのに、
それらは全て、新しく出来上がったもののように感じられた。
極彩色ではないが、
新しい世界を見るような感覚。
今まで気がつかなかったものを見る感覚。
次は駅前という車内アナウンスが流れる。
緑は「次止まります」のボタンを押した。

駅前でバスを降りると、
緑は、一人でうなずき、一歩一歩、時計台に向けて歩き出した。
12時まであと少し。
もう来ているだろうか。
まだだろうか。
どんな格好をしているだろうか。
おしゃれしているだろうか。
メイクとかをしていたら、ほめないといけないだろうか。
おしゃれも、ほめないといけないだろうか。
歩みは止めずに、ぐるぐると考えながら歩く。
時計台が見えてくる。
近づいてくる。

人ごみだらけ。
みんな休みなんだろうか。
カップルがやけに目に付く。
そんな気がするだけかもしれない。
様々の人が行きかいする。
それは、今の緑にとっては、ただの人の群れ。
探す。
ただ一人の人を。

時計台の下。
見慣れた黒のキャスケット帽子が目に入る。
緑は歩みを止める。
時がゆっくりになった感覚。
雑音が何も聞こえない。
鼓動がバクバクしている。
帽子から覗く、不揃いの茶色い髪。
見慣れた横顔。
白くぴったりとした、半そでのブラウス、
スリムなジーンズ、
大きなトートバッグ。
派手なアクセサリーはない。
身体のラインがある程度判る。こんなに細かったのかと思う。
彼女は時計台と、腕時計を何度も交互に見ている。
時計台を見るときに見せる、不安のような表情。
人ごみはゆっくりと、人ごみとして流れていく。
音すら聞こえなくなったなか、
彼女だけ、くっきりと見える。

緑は歩き出す。
ケイに向けて。
12時まで10分前。

彼女に近づいていく。
彼女が気がつく。
不安を伴っていた曇りがちの顔が、
満面の笑みへと変わる。
ああ、この笑顔が見たかった。

「おそーい」
ケイは怒鳴る。
緑は走る。
「はやくはやく」
走りより、ケイの元へとやってくる。
ケイは、満足そうに微笑んで、緑の頭をなでた。
「よく出来ました、天然風間」
「はい、ありがとうございます」
ケイは、にんまり笑った。
「さぁ、どこから行こう」

一日は始まったばかり。


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