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謡曲


これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
どこかの扉の向こうの世界の物語。

ソウは機械体の女性だ。
機械の身体。脳だけが生身だ。
電脳犯罪取締官。肩書きはそういうものだ。
いわゆる警察というものに近い、
少しばかり特権があって、
少しばかり電脳に通じている。
そういうものだ。

ソウにはコンビを組んでいる、
トオルという男がいる。
トオルはほとんどが生身で、
ソウとは正反対のタイプだ。
古臭くて生真面目。
でも、やると思ったところは通す男だ。

ソウは、機械体のメンテナンスをしている。
手首のデータベース端末をはずし、腕をはずし、
自分でできる限り自分の機械体を把握する。
これは生きているのだろうか。
ソウはそんなことを思う。
この腕は生きていないだろう。機械の塊だ。
使っている自分は生きているのだろうか。
生きているとされるのはどこからだ。
ソウの脳裏がちりちりするような感覚。
生きていると思いたい。
あきらめて機械になれない。

機械体の顔のまま、ソウはメンテナンスを続ける。
そのソウのもとに、聞こえるもの。
ソウは手を止め、次いで顔を上げた。
音、いや、歌。
トオルが何か、音楽らしいものを流している。
ノイズが多い。
ラジオだろうか。
聴覚を通して、感覚が洗われていく。
「…音楽?」
「あ、はい」
「いい感じね」
「謡曲とか言うらしいです」
「ようきょく」
ソウはデータベースで調べない。
ようきょく、それで十分だ。

獣が歌っているような、
言葉のよくわからない歌。
それは謡曲というらしく、
どこか遠いところから、
ラジオの電波に乗ってやってきた。

「生きるってこういうことかも」
「はい?」
「なんでもない。そう感じただけ」
ソウは言うと、また、メンテナンスに戻った。
外れた腕がある。
これは、機械。
でも、歌に心を洗われる自分もいる。
それが生きることかもしれないと。
いまさら、ソウは思った。


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