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神技
斜陽街一番街。
ひっそりとバーがある。
ここのマスターは神技を持っているという。
そんなことを聞いてやってきたお客が一人。
誰というわけでもない。
ただの、お客だ。
「いらっしゃいませ」
マスターが出迎える。
ジャズの有線の鳴る店内。
静かで、趣味がよく、片付いている。
お客はきょろきょろとあたりを見る。
ボックス席の奥に、一人お客がいる以外は、
ちょっとこぎれいなバーだと思う程度だ。
「目が見えてないね」
ボックス席のお客は言う。
「妄想屋の夜羽って言うんだ。覚えておいて」
ボックス席の夜羽はそう挨拶する。
見えていないとは何だと、お客は尋ねる。
「そうだね、その目ではマスターの神技は見えないよ」
お客は気分を害する。
荒々しく、カウンター席に座る。
当然、カウンター席に塵なんて落ちていない。
お客の怒りも受け止める。
すべて受け止めてなお、ゆったり包み込む。
何でもいいからと、お客は乱暴な注文をする。
夜羽に目が見えていないと言われ、
ならばどんな神技を持っているのか。
見えないとは一体どういうことなのか。
お客は見てみたいと思った。
マスターは静かに、
お客好みの酒を差し出す。
きれいなグラス、
磨かれた器具、
落ち着いた雰囲気、
そして、うまい酒。
極上の酒だとお客は思った。
これが神技?
うまい酒だけれども、と、お客は思う。
ジャズが鳴っている。
お客は錯覚する。
この一杯のためだけに、
この空間があるかのような錯覚。
最高の一杯のために、
すべてが用意されているような錯覚。
「錯覚じゃないよ」
夜羽か言う。
何が錯覚なのかは言わないが、
多分あの妄想屋というのも、わかっているのだ。
神技。
それは、最高の一杯のために、
惜しみない静かな情熱を傾けること。
お客はいい気分になった。
心の曇りが流れるような。
酒の一杯が、こんなに最高だと感じられることはなかったと、
神技を見たお客は思った。