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天狐


これは斜陽街から扉一つ分向こうの世界の物語。
どこかの扉の向こうの世界の物語。

野良狗は、布を巻かれた鞘付きのまま、
野太刀を構える。
ヤジマは、殺気が増したのを感じる。
野良狗のものか、それとも、襲撃者のほうか。
あるいは両方か。

走る。
そして、高い金属の音がぶつかる。
月明りは届きにくく、
戦闘は気配を読むしかできない。
面をしている野良狗は、
闇の中を見えているのだろうか。

野良狗と襲撃者は間合いを取る。
月が少しだけさす。
襲撃者の面は狐のようだ。

「使わないのかい、その刀」
狐面がしゃべる。
声は少年のそれだ。
「まだ使うこともあるまい。天狐よ」
天狐と呼ばれた狐面の少年は声だけ笑う。
「そう言われれば、意地でも使わせたくなるよね」
天狐が短刀を構える。
「僕だってすべてを捨てて、ここにいるんだ」

ヤジマは、一瞬、
天狐が泣きそうに見えた。
それは、ただの面であり、
ヤジマの妄想かもしれない。
すべてを捨てて。
どれだけのものを捨ててきたかは、わからない。
面の下に何を隠しているかわからないし、
言葉にしても言い尽くせないのだろう。

だからきっと。
存在理由のために彼らは戦う。
「刀を抜きなよ、野良狗」
天狐が挑発する。
「あんたは面なんだから」

面が言葉を話し、
面が戦うこの夜の底。
それは命なのか。
命でなければ戦ってはいけないのか。
面に命はあるのか。
命とはそもそも何をさすのか。

「私は生きている」
野良狗が話す。
「だから、生きるために戦う。それが」
言葉を区切り、
「野良狗の面の生きる意味だ」

夜の底で、
野良狗と天狐が対峙している。


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