箱物語(仮)21


彼は落下している。

正確には、彼は落下の感覚をえんえんと感じている。
彼は中年の細身の男。
ここは彼の部屋、
本が並び、机があり、それなりの電子箱がおいてある。
部屋は決して無機質ではなく、
木を基調とした、どこか温かみのある部屋だ。
テーブルには器に入った、茶が2杯。
1つは彼のために。
もう一つは、
落下の感覚を名刺代わりにする、彼のために。

怪盗アーカイブのために。

「それで」
怪盗アーカイブは茶をすすった。
そして続ける。
「圧縮は別にかまいませんよ」
中年の彼は、落下する感覚のまま、うなずいた。
「ぜひお願いします。私の…」
中年の彼は、言葉を区切った。
「私の声を。声の記録を、すべて圧縮してもらいたいのです」
怪盗アーカイブは、微笑んだらしい。
気配がそう伝えてくるだけで、顔はわからない。

怪盗アーカイブは、器をテーブルに戻す。
「確かにあなたは、名のある声優だ。声の価値は高い」
声優の、中年の男は、複雑な表情をした。
「圧縮解凍は私の本職。それであなたは何を得る?」
声優の男は、間をおき、ぽつりぽつりと話し出した。
「私の身体には…私の声が流れています」
怪盗アーカイブは「ほぅ」と、感嘆した。
声優の男は続けた。
「私の声という記録が、声優としての私のすべてです…」
「あなたの過去の箱の記録の価値は、あなたの声…と」
「私を構築する記録が、有限であるこの肉体の声という記録ならば…」
「なるほど、圧縮して、出来ることならば残したいというわけですね」
声優の男は、電子箱を示した。
「私の声の記録を、圧縮して、電子箱から世界へ…」
「放流するわけですね」
「そうです。そして私の記録は、私の声は永遠になる…」
「どこかには残るし…そうですね、面白いことを考えました」
怪盗アーカイブが、笑ったらしい。
「あなたの声の記録は膨大だ。響き、表情、音程、呼吸…どれをとっても膨大だ」
「それを圧縮…」
「それもいいけれど、全てを一度分解した上で圧縮して、放流してみるというのは?」
声優の男は、不思議そうな顔をした。
「あなたの中を駆け巡っている声という記録が、そのまま電子箱の網の上を駆け巡るのです」
怪盗アーカイブは、面白そうに笑った。
そういう気配だが、明らかに楽しんでいる。

「きっと、あなたの望む永遠に近くなれますよ」

名のある声優の声の記録は、
こうして圧縮され、放流された。
どこかで圧縮された記録を全てつなぎ合わせ、解凍すれば、
この声優は、また、声優を演じることが出来るかもしれない。

怪盗アーカイブの落下の果て、
声優は永遠を見たか、
それはわからない。


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