箱物語(仮)113


こんな状況でなければ、
ヤンは走りながら思う。

こんな状況でなければ、
5月の風は爽やかで、
街路樹に若い緑。
外に出て散歩もいいし、
カフェでコーヒー片手に文庫本もいいかもしれない。
あくまでも、こんな状況でなければ。

ヤンは雑念を自分の奥にしまう。
そして、先頭切って箱の目を使って、
捕獲対象を追いかけている、ルカを追う。
いつものように拳箱をスタンバイ。
プレートをつけている自分たちは、
さわやかな5月の街角から、いないことにされている。
「ヤン先輩」
走りながら横に並んだカラットが声をかけてくる。
「雑念が見えたっすよ」
ヤンは困った顔をする。
ルカと捕獲対象を見たまま、走ったままで。
「失敗すると、ルカ先輩に怒られますよ」
後ろからツヅキの声。
この後輩たちは、
箱の目はないが、心のふとしたところをよく当てる。
「大丈夫です。いつものようにいきましょう」
「らじゃっす」
いつものように。
そう、外の季節がどんなことになっても、
いつものように。

カラットの停止銃で捕獲対象を止め、
ルカの展開刀で展開、
違法記録はヤンの拳箱にしまわれる。

拳箱にしまう刹那、
違法記録と混じって、
過去の箱の持ち主の、別な記録にヤンは触れた。

「5月の風なんてなければいいのに」
「5月の風は引き剥がすから嫌い」

少女のわがままのようなその声。
合法記録で、いたって日常的なそれ。
5月の風は何を引き剥がすのだろう。
いないことにされているヤンは、
その記録の持ち主とは話せない。

町は5月のさわやかさ。
季節が普通にめぐっている。
その中で、
5月の風を恨む誰かがいる。
誰だろうか。
ヤンにはもう、その人物はわからない。
それでも、
この町のどこかで、
5月の風が大嫌いな誰かがいる。

さわやかなだけでない、
5月の風が吹く。


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