少年の言葉
ネジは運転席に、改めて身を沈める。
沈めるほどふかふかの席ではないが、気分の問題だ。
なんだか、知れば知るほど自分が中央向けでないような気がする。
でも、中央の中心。
そこに行かなければならない。
壁の向こうへ行かなければならない。
向き不向きじゃなくて、
義務に近いかもしれない。
運転席から薄暗い空を見る。
雨はいまだに降り続いている。
ネジの赤い前髪の向こうには、
中央の変わらぬ雨。
青い空を見たことがないというのを思い出す。
どこかの空間の彼女。
青い空を見たことがないから、
本当の喜びが、わからないのかなと、ぼんやり思う。
この中央の人たちも、
青白い喜びしか知らないんだろうか。
「わーい」
「まてー」
ネジの考えが中断される。
車から歩道を見れば、
小さな傘がたくさんはしゃいでいる。
少年達だ。
幼いくらいの少年が、傘を振り回して走っている。
「今度リューズを取るんだって?」
「そうさ、俺も夢の世界に行けるのさ」
「俺んち、そういうのしてくれなくてさー」
「親が言うんだよ」
「なんて?」
「今の時代、夢を見たのが勝ちだって」
「いいこと言うねー」
「俺は研究者になりたいな」
「いや、上流階級まで行きたいな」
「お前はもうすぐ夢の中だもんな」
「へへっ、先に行って待ってるぜ」
少年達の後ろから、
ひとつ、傘が離れて歩いている。
「おい、何ちんたらしてんだよ」
「ごめん」
「お前の所為で中流階級のイメージ悪くなるんだよ」
「ごめん」
「お前なんか、シオン送りになっちゃえよ」
「くんなよ、外くさいんだよ」
「ごめん」
はしゃぐ傘は、ひとつの傘をしばらくののしって、
やがて飽きたのか、去っていった。
ひとつの傘は、カラスも呼ばない。
ただ、雨の中でうつむいている。
ネジは興味を持った。
「ちょっと行ってくる」
ネジがそういうと、サイカは短いため息をついた。
車のエンジンを止め、
もともと車どおりの多くない道路に、そっと下りる。
ネジは傘に近づく。
「こんにちは」
傘の子どもが顔を上げる。
少年だ。
ののしられる理由はわからないが、利発そうな子どもだと思った。
「誰?」
「通りすがりの聖職者です」
「あ、ぬれますよ」
少年が傘を差し出す。
「軒下でも借りよう」
ネジと少年は、歩道に面した適度な軒下を借りる。
こういう階級だから、
軒下借りて、文句言われたら撤退だなとも考える。
「どうして言い返さなかったの?」
ネジは少年に尋ねる。
「言い返して傷つけるのが嫌なんです」
「でも、相手は傷つけてるよ」
「うーん」
少年は考える。
「僕が傷つくことで、ほかの傷を引き受けられるならいいかな」
「それでも痛いでしょ。俺にはなんだかわかんないけど」
少年は黙る。
「カラスも呼ばないし、言い返しもしない。中流階級の人っぽくないなと思って」
「聖職者さんにはそう見えますか?」
「外から来たからね」
少年はうなずき、そして、
「僕は研究者階級から来ました。中流階級の実態を調べるために」
ネジはちょっと驚く。
「このことは黙っていてもらえますか?」
「黙るにも話す相手があまりいないよ」
少年は微笑む。
「将来性のないリューズはずしが横行していると聞いて、何人か、派遣されています」
「研究者だといわないの?」
「いろいろ隠していたほうが、やりやすいです」
「なるほどねぇ」
「でも」
少年は顔を曇らせる。
「少しでも知った人が、リューズをはずしてしまうのは、あまりよくないと感じるのです」
「さっきの子?」
「はい」
「ひどいことを、たくさん言ってたじゃないか」
少年は頭を振る。
「それでも、誰かが苦しむのは苦手です」
雨はまだ降っている。
「それじゃ、このことは内密にしてください」
少年は微笑み、傘をさして軒下から出て行った。