おにぎり


音楽が流れている。
一部の好事家のためとサイカは言う。
けれども、こんなに満たされる。
ネジも一部の好事家になったのだろうか。
それとも、と、ネジは思う。
人間ごっこをしている「何か」だから、
音楽がこんなにも満たされるのかもしれない。
ネジは酒や食事を捨てきったわけではないと思ってる。
各地の酒や食事は文句なくうまかったし、
そのたびに満たされた。
音楽はそれとも違うところに干渉して、
ネジの内側を満たしていく。
解けたものが、また締まる感じ。
なんだろう、なんと言えばいいのだろう、この感じは。

ネジはベッドに転がる。
サイカは相変わらず目を閉じている。
ネジが眠るにはまだ早い。
「食事と言い出さないのか?」
サイカが閉じた目をうっすらあけて、問う。
「音楽で満たされるからいいよ」
ネジはそんな答えをする。
「思い出したのか?」
「なにを?」
「いや、思い出していないなら、言うまい」
「ふぅん」
サイカは、軽くため息をついた。
「食べに行くか」
「何を?」
「中央には何でもある。たまには食べたほうがいい」
「人間ごっこって、サイカ言ってたよ」
「人から離れるのも考え物だ」
「ふぅん」
ネジはよくわからない。
「人のふりをするには、人らしくあるのが一番だということだ」
「人らしく」
「音楽だけで満たされているのは、らしくない」
「サイカだってずっと聞いていたくせに」
「俺はいいんだ」
「よくない。棚に上げるって言うんだ、そういうの」
サイカが苦笑いらしいものを浮かべた。
サイカの苦笑いなんて、
ずいぶん懐かしいもののように感じた。
昔に見たような。
もしかしたら、なくした記憶にあるのかもしれない。
懐かしいサイカに会ったような気がした。

二人は、いくつか前のグラスで買った、
黒いスーツに着替える。
いつもの衣装は少々濡れていて、よくない。
ドレスコードに引っかかる店に行くつもりはないが、
とりあえずの服装だ。
仮面屋はここでも営業しているのかなとネジは思う。
多分どこにでも、ああいう不思議なものはいるのだ。
フロントで傘を借りて、
傘は二つ、表へ出る。
聖職者の衣装ではないが、
ネジは一応ラプターを持ってくる。
盗まれたら、多分よくない。

「何か食べたいものはあるか?」
サイカがたずねる。
「何がいいかな。何があるんだろう」
「俺の手料理と言い出さなければ、何だってある」
「じゃあサイカの手料理」
「それはない」
「けちー」
ネジは文句を言う。
サイカは意に介していないようだ。
すたすたと先に歩いていってしまう。
「言い出したんだから、サイカの手料理がいい」
「言い出していない」
「あのときのように、なんか作ってよ」
ネジは思いつくままに言う。
それが何を意味するのかもわからずに。
サイカの足がぴたりと止まる。
「あのとき?」
ネジは続ける。
サイカが差し出してくれたもののことを。
「おにぎりってやつ。サイカが覚えてない?」
「いや、覚えているが…」
「おにぎりがいいな」
「そうか、しかし」
「しかし?」
「そのおにぎりは、お前が記憶をなくす前のものだ」
「そうなの?」
「ああ、間違いない」
雨の中、サイカが振り返る。
宿の広告が書かれた、貸し傘。
「おにぎり、か」
「うん、おにぎり。すごくおいしかったのを覚えてるよ」
ネジの記憶が告げている。
おいしいおにぎり。
困ったようなサイカのこと。
あの時ももしかしたら、無理してサイカに作らせたんだろうか。

「おにぎりはさすがに作れないが」
「作れない?」
「俺の手は汚れている。作り出す手じゃない」
「洗えばいいよ」
「…そういうところは、記憶があってもなくても変わらないな」
ネジは首をかしげる。
洗えばいいとだけ言っているのに。
昔もなんだかこんなやり取りをしたなぁと、
ネジの記憶が告げているような気がした。


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