思い出す


混乱とは無縁の世界だ。
ネジはそんなことを思う。
窓のない建物、一本の道。
そこをネジたちは歩く。
こつこつ、足音だけが響く。
雨すら降らない、秩序以上の秩序の階級。
逆に満ち満ちた空白と、
戦場のような混乱を思い起こさせる。
こつこつ、特権階級に向かって歩く。
トビラはどうしているだろう。

「思い出すなぁ」
リュウが歩きながらつぶやく。
「大戦のころはな、リューズはずしてくれって奴らが行列だった」
ネジはうっすら思い出す。
戦場に出かける前のこと。
中央はこんなに膨れ上がった町じゃなかった。
けれど、上流階級の連中はその頃から現実を捨てかかっていて、
リュウはその頃からリューズをはずしていた。
戦場でもリューズをはずしていて、
その屈強な拳で叩きのめした、兵士のリューズをはずし、
実験結果として報告していた。
それをネジは思い出す。

「思い出すね」
ハリーがすっと話し出す。
「模写師の技術を磨いたのも、戦場だった」
ハリーはネジの前まで小走りする。
そして、くるりと誰かに化ける。
くすくす笑い、また、くるりとハリーに戻る。
ハリーはおかしそうに笑っている。
「うつろなのにね。なんだか楽しいんだ」
チェシャ猫ハリー。
模写師のハリー。
戦場で敵になったり味方になったり。
誰が誰を殺すべきなのか曖昧になってしまった空間で、
ハリーは模写することを覚えた。

「思い出します」
ネジの隣でトリカゴが話し出す。
「力学とアリスで世界が救えると信じていました」
トリカゴはため息をつく。
「私の研究は、正しいと。力学に不可能はないと。信じていました」
ネジはネムリネズミのトリカゴの研究室を知っている気がする。
そこには力学の機材と、
あらゆるところに描かれた力学の計算、記号。
トリカゴはそれで世界が救えると思っていた。
結局、町をひとつ滅ぼしたりした。
トリカゴは生き残りの子どもを連れている。
決してその手を離さないように、
ぎゅっと手をつないでいるのがわかる。
「もう、迷いません」
トリカゴは眼帯のないほうの目をネジに向ける。
そういえばトリカゴは、片目を戦場でなくしたと。
ネジの記憶が言っている。

「思い出す」
サイカがトリカゴと逆のほうでつぶやく。
「三月ウサギと帽子屋」
「うん」
ネジは答える。
「アリスは何だと思う?」
「彼女に会わないとわからないよ」
ネジは答える。
「帽子屋はアリスの証人にならないといけない」
「俺に何ができるだろうね」
「それこそ俺にも未知数だ」
「本当はわかってるんじゃないの?」
「わからん」
サイカはきっぱり答える。
執事服を翻し、すたすた歩く。
ネジもついていく。
みんなを逃してはいけないと思った。
ようやく思い出せたものを、今度こそ逃がしてはいけないと、
ネジは痛いほど思った。

俺は帽子屋、俺はヨハネだった。
そして今、俺はネジとして、
彼女の元に行く。
トビラが何を狙っているのか、
キュウは何なのか、アリスは何なのか。
俺が定義しないといけないんだと、
ネジは思う。

赤い前髪の向こう、
ゲートが見える。
特権階級へのゲートだ。
通せんぼをするように、一応棒が降りてくる。
「スキャンをします」
合成音声が響く。
雨も降らない混乱のない町で。
ネジは遠くにノイズを感じる。
笑い声のノイズだ。

「スキャン終了。パスを確認しました。お通りください」
何名とは言わないらしい。
サイカが左手に仕込んでいるものの所為だろうか。
それとも、意図的にそういうものにしてあるのだろうか。
ネジがわからないままに棒は上がり、
ネジはそこへと歩き出す。

白い空間。
道まで白い空間がある。
ネジは空間に踏み込んだ。
瞬間、めまい。
ネジは踏みとどまる。
まだめまいに身を預ける時間ではないと瞬時に思う。
ネジは前を見る。
そこには、トビラがいた。


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