九龍的日常:5月17日
窓男のいる壁の前で、
ノットマンは疑問に直面していた。
即ち、妄人は人かということ。
答えによっては、彼の存在理由が崩壊するかもしれない。
窓男のみならず、
人でない、と、公言するノットマン自身も。
人とはなんだろうか。
それを否定するというのは、どういうことなんだろうか。
ノットマンは煮詰めて考えるのは苦手だ。
自分は人でない、それで逃げてきた。
議論も苦手だし、
自分以外を否定するのは大の苦手だ。
ノットマンは妄人ではない。
普通の人間だ。
普通とはなんだ、人とはなんだ、妄人とはなんだ。
ノットマンは、考えるのが苦手なわけではない。
ただ、意見を述べて、それで誰かが傷つくのが嫌なのだ。
人でないから何も言わないよ。
そうしてきたのに、
姿形からして言いたいことが雄弁な、
妄人という存在がある。
人でないとは、いったい何なのだろうか。
「あれ、ノットマンさん」
気の抜けた声は、やる気のないケージのものだ。
「みんなイベントの煮詰めに忙しいですよ、どうしました?」
「いや、らしくなく、哲学していましたよ」
「らしくなく?ノットマンさんって哲学向きだと思うなー」
「どういうことでしょう?」
「人とはなんだろうって、そうでないことはなんだろうって」
ケージがぼんやりと列挙する。
それは間違いなく、自分が思い悩んでいることだ。
「…そういうことを、考えて、たまに自己否定して、悩んでる気がします」
「そう、みえますか」
ケージはうなずく。
そして、
「それが、とっても人間らしいと思います」
と、ケージは邪気のない笑いをする。
「妄人も、私も、ケージさんも、みんな、人でいいものでしょうか」
「いいよいいよー。みんな仲間だからいいの」
ケージはやる気なく、のほほんと答える。
ノットマンは自然に笑みがこぼれる。
仲間という言葉がポンと出てきたけれど、
ケージは九龍の連中をみんなひとくくりで仲間としているんだろう。
人であるとかないとか抜きで、
みんな、仲間。
ノットマンはそれが一つの答えである気がした。