僕のいるところ


低く音の鳴っている、真っ暗の空間。
僕は人に似たこの身体を丸めて、
目を閉じて、いる。
怖くはない。
安心する。

僕はフロッピー。
記録媒体。
旅をしたのは記録媒体の僕だし、
あるいは、記録媒体の意識かもしれない。
どっちも正解だと、僕は思う。
フロッピーディスクの四角い形じゃなかった気がするし。
なんだか、とっても解放されていた気がする。
僕は小さな僕。
何かを記録するには、とっても小さな僕。
この旅で僕が感じたこと。
それは、記録できない、形ないことが無数に存在すること。
無数、無限、それは記録が出来ないものだ。
無だから。
でも、この世界はその無数で成り立っていて、
僕も数のうちに溶け込んでいることがわかって、
よかった、と、思った。

僕はひとつの答えを出そうとしている。

どんなデジタルに武装された記録、データ、でも、
この世界の無数の中の、一点を残すことしか出来ないと思う。
その一点をつなぎ合わせて、世界の輪郭を知ろうというのは、
気の遠くなるような話だと思う。
その一点が誰かにとって意味のあることかもしれないし、
誰かにとっては訳のわからない一点のデータかもしれない。

僕は一点すら残しきれない記録媒体。
そして僕は、まだ命でない。
データの集合すらしていない、ただの媒体だ。
そう、命でない。
僕は、記録媒体の僕から、命の僕になりたいと思う。
記録としての、世界のすばらしさより、
ひとつの命になって、誰かにすばらしい世界を伝えたい。

無限のデジタルデータより、僕は有限の命になりたい。

ふっと、僕の記録の中に、
友達の記録があることを思い出す。
そう、友達。
僕の記録は空っぽのままじゃなかった。
君が、君たちが、いる。
あたたかな記録だ。

僕はやがて、
記録媒体の限界で、記録を残すことも出来なくなるかもしれない。
フロッピーを保存することなんて、もうなくなるだろう。
それは僕がなくなることでなく、
僕が有限になれたということなんだ。
多分、その消滅で僕は命になり、
僕はあたたかな友達の記録を抱えて、
旅して見てきた無限のうちに、帰るのかもしれない。

僕はフロッピー。
僕が消えることは怖くないよ。
だって、君がいるから。
僕には友達が、いるから。
君のいるところが、僕のいるところ。
僕は、どこにでも行ける。


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