じかん


時間というものは、
基本的に時計であらわされていて、
流れるものだと思われている。
どこかから、どこかへ。
そうとも限らないことを、僕は最近知った。
時間は、とあるおばけが食べている。

時眩み(ときくらみ)という名前を僕はつけたのだが、
とりあえず誰も知らないおばけだ。
時眩みは、時間を食って生きている。
時間を使いたくなるようなものに寄生して、
なるだけ多くの時間を使わせる。
面白いもの、目が離せないもの、続けたいもの、
そういうものには時眩みがよくつく。

僕が時眩みを知ったのは、
僕自身、時間を使わせたい物を作っていて、
まぁ、面白いゲームとはなんだろうと、
試行錯誤していたと思って欲しい。
とある夜中に、僕は時計に座っている時眩みを見た。
幻覚と疑った。当然だ。
でも、そのときに見た時眩みは、
ずいぶん腹をすかせているようだった。
「時間をくれないか? 少しだけでいい」
時眩みとそのときは知らなかったけれど、
僕は時間を少し与えた。
少し元気になった時眩みは、
自分は時間を食べていること、
時間を使っているものには、たいてい彼らがついていること。
面白いものほどおいしい時間が食べられること。
そんなことを話した。
僕は彼に時眩みの名前をあげて、
時眩みというおばけになった。

人間の時間は有限だと時眩みは語る。
なのに、その時間を、時眩みの餌にしていて、
人間はとても無益なことをしている。
時間は戻ってこないのに、
なおかつ、生まれなかったことには決してならないのに、
人間の時間は時眩みに食われて削られていく。
気がついた時には、目の前に無が広がっている。
それがわかっているのに。
時眩みは、半ば人間に同情するようにそんなことを語る。

無駄に面白いもの、その時間。
生きるためとはまた違う、余裕。
それは、時眩みのまたとない餌であり、
あなたが楽しんだり面白がったりするのを、
時眩みも喜んでいる。
そして、その時間を食べている。

時眩みに食べられない時間だけを持った生き方は幸せか。
時眩みのついているゲームを見ながら、
僕は最近そんなことを考える。


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