せん


今このとき、この線を越えたら。
何度も考えて、結局越えられなかった。
今日こそは越えられるだろうか。
私はとある高い建物のフェンスをにらむ。
ここは屋上。
私がここにいる理由は、
ありきたりなものだから説明の必要もない。
フェンスを越えて、空に身を投じれば楽になれるとか。
そういうことを常日頃考えている。
今日こそはフェンスを越えようか。
そして、一線越えて落下しようか。
全てが終わる気分はどういうものだろうか。

私はフェンスをにらむ。
有刺鉄線なんて張りやがってと。
人生終わるのはかまわないけれど、痛いのは嫌だなと。
「あまったれ」
不意に、どこかから声。
「ここ、ここ」
声のほうを探すと、フェンスの向こう、
屋上の端っこに腰掛けている男子学生がいる。
その気になれば、いつでも落ちられるであろう場所。
私が越えられない線、その上にいる。

「ねぇ、哲学しよう」
学生は無邪気に私に話しかける。
「死んだらどんな思想もパーになると僕は思う」
「思想なんて」
「うん、個人の思想なんて小さなものだよね。でも、だよ」
「でも?」
「人にはつながる線がある。縁という線だと僕は思う」
「えん?」
「人はつながっている。僕と君もね」
そうなんだろうか。
私は黙る。
「線はつながるもの、越えるものじゃないさ。境界線があるのなら」
「あるのなら?」
「ちょきんと切ったら、境界なんてなくなるよ」
「切れるの?」
さっきから私は質問ばかりだ。
「線は簡単に切れる。結びなおすことも出来る。誰とでもつながれる」
誰とでもつながれるなら、逆もあるだろうか。
「人生脱出する前に、線の整頓しとくといいよ」
男子学生は笑う。
「誰に覚えていて欲しいか。話したいのは誰なのか」
「あなたには、いなかったの?」
私は、感じていたそれを投げかける。
「死んだらどんな思想もパーになる。覚えていて欲しいこともね」

男子学生は、瞬きひとつしている間に消えた。
多分自殺を止めたいとかそういう正義でなく。
単純に覚えていて欲しかっただけなのだろう。
生きているうちに彼の話を聞きたかった。
私にもそんな人がいるだろうか。

男子学生の幽霊とは、それっきりだった。


次へ

前へ

インデックスへ戻る