怪談:本日限定クレーム


今日だけだから。

行きつけのレストラン。
気取ったところではなく、
定食屋寄りの感じ。
カレーもハンバーグも、
お刺身だってある。
私はそのお刺身が好きで、
カルパッチョなんて気取っていない、
どこまでも我が道を行くお刺身が好き。

レストランだけど、
料理を作っているのはシェフというものより、
昔ながらのコックさん。
調理場もカウンター席の隙間から見えて、
真剣に料理に向き合ってるのがわかる。
料理ができたらホール係の人が運んで、
カウンター席だったらコックさんが運んでくれる。
私はそのカウンター席が好き。

ある日。
私は何か大失敗をして、
とぼとぼとレストランにやってきた。
もう何もかもがダメだと思ったし、
泣く気力も使い果たした果てに、
このレストランのカウンターに座った。
ホール係の人も、何も言わなかったし、
コックさんは私を見ると、
何もかもわかっているように冷蔵庫からお魚を出した。

お魚が輝いて見えた。
なんでだろう。
生きているときよりもきらきらと、
海にいるときよりも生き生きと。
ああ、ここでまた生きなおしているんだと私は感じた。
生まれて死ぬまでが生きることてなく、
何か残せれば、それは生きるということなんだ。

コックさんはカウンター席にお刺身を持ってきた。
美しいお刺身に、私は涙した。
「何度生きてもいいんですよ」
無口なコックさんは言う。
わかっていたんだ。
私が死にかけていることも、
さっき自殺未遂したことも。
私の肉体は病院にあり、
今まさに、生きるか死ぬかの峠にあること。
「今日、生まれなおしてください」
コックさんはそう言った。

私はお刺身を一切れ。
素晴らしく生きている味だ。

そして、私の意識は急速に肉体に戻っていく。
痛みを伴った世界に。

それから。
あの日、仕事で失敗をして自殺未遂した私は、
しばらくして転職に成功し、
引っ越しをして、新天地で頑張っている。
あのレストランには通うこともできなくなった。
あの日、命をくれたお刺身。
私はそれにクレームを入れることができなかった。

幽霊みたいなのじゃ、お金が払えないじゃないですか。
なんでそんな相手に極上のお刺身出したんですか。

記憶の中でコックさんは笑っている。
あの日のクレームを届けに、いつかレストランに行かなくちゃ。


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