凪の海


潮のにおいがして来る。
ネネは、海が近いことを知る。
目覚めているのに目覚めていない朝凪の町。
浅海の町と、線を一本だけ区切られ、つながれている町。
ネネは線を辿る。
器屋が続く。

線は一直線。
ネネがそこを辿ると、目の前が開けた。
そこは海だ。
凪いでいる海だ。
時間を止めたような海。
大きな波はひとつもない。
鏡にすら見えそうだ。

「これが、海」
ネネはつぶやいた。
「朝凪の町の海です」
器屋が答える。
ネネは開けたそこを見回す。
浜は砂利みたいなのが転がっている。
小さな、本当に小さな波が、
さわさわと砂利を洗っていく。

赤く色づいてくる空。
朝焼けが色彩を変えようとしている。
線で区切られていない朝焼け。
ネネの視界で桜色した朝焼けが、
八重桜のような色に変わる気がする。

「凪の海は珍しいですか?」
「うん」
ネネはうなずいた。
器屋はそのそばで、壷を持ってかがみこんだ。
「天地陰陽の理に置いて、解き放たれよ」
器屋が宣言すると、
壷から熱波が吹き上がる。
それは爆発によく似ていた。
「海へ!」
器屋が宣言すると、
熱波は海へと向かう。
海はしばらくさざなみを立てると、
何もなかったかのように、凪いだ海になった。

「これで熱波を返せました」
「これも理?」
ネネは尋ねる。
「そう、過剰な火は水で抑える。そういう理です」
「理にのっとればいいんだね」
「そういうことになります」
ネネはなんとなくわかった気になる。
当たり前のことが当たり前に流れる。
これもまた、理というのだろう。

『ネネも、器屋で言う理の一部なのです』
ドライブがネネに呼びかける。
「あたしも?」
『正しい線だって選べますし』
「偶然かもだよ」
『ネネはきっと線を操れるパワーがあると思うのです』
「わかんないよそんなの」
ネネはさっきの分かれ道で、
ハヤトの偽者らしいものを思い出す。
何でわかったか。
呼び方以前に、あれはちがう!と思った。
ドライブはそういうことを言っているのかもしれない。

ネネは思う。
飛んだり走り回ったり、いろいろな職業の人を見て、
ネネ自身にどんな力があるというのだろう。

『ネネ』
ドライブがころころした声で呼びかける。
『イメージしてください。あのときのロープ渡りの踊り子を』
「踊り子」
ネネは一言言うと、意図を汲み取った。
神社に行くときに感じた、一本の線を渡る感覚。
私はサーカスの踊り子。
命綱なしで、この足だけでロープをわたる。
この線は私の線。
ジャンプだって逆立ちだってする。
このロープは私の舞台。
線は最高の舞台だ。

ネネは足元の線を見る。
ネネの見るところの、いつもの線だ。
ロープではない。
けれども、この線は、ネネの舞台だ。
ネネが走り回る線。
操り方は、よくわからない。
いつかそういうことが必要になるのだろうか。

ネネは、朝凪の海を感じた。
海は全てを飲み込むイメージがある。
生きているものを住みつかせている。
何があっても海は海だ。
波すらない眠った海は、
色を少しずつ変えている空を、
寝返りを打つようにゆらゆらうつしている。
ああ、海も夢を見るのかもしれない。
ああ、海も生きているのだ。
大きな大きな生き物で、どんなものなのかがわからない生き物だ。
凪の海は、飲み込んでいる命を、
ゆったり抱えている気がする。
魚かもしれないし、海特有の生物かもしれないし、
器屋の解き放った熱波かもしれない。
みんな抱え込んで、海は眠っている。

ネネの舞台がちっぽけに思うほど、
朝凪の海が広がっている。
「かなわないね」
ネネはつぶやく。
「自分のあるべき姿にあるべき。それが理です」
器屋がそういい、ネネはうなずいた。
ネネは海になれない。
なれないけれど、あこがれのようなものを感じた。


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