ありえない事故


ネネは歩く。
渡り靴の硬い足音をさせて。
こっつこっつ。
音楽のように軽快に。
浜からだんだん離れていくような感じがする。
また、商店街のほうに戻るのかもしれない。
少し歩くと、入り組んだ浜の町並みから、
ちょっとした大通りに出た。
さびた町並みがなくなったわけではないが、
すこし、新しい感じかもしれないと思った。
浜の町並みと比べて、ではあるが、
ネネはそんなことを感じた。

車はないようだ。
車道に出ても、信号は変わる様子もなく切れているし、
車を必要とする人もいないようだ。
少し広い大通りを歩く。
魚を売っている店などがある。
海の記念に、などという店もある。
海を中心とした商いになっている。
海の家とは少し違うかもしれないけれど、
やっぱり海あってこそのラインナップのようだ。

昔、海に来たらしい記憶。
船が汽笛を鳴らした記憶。
そのときにも、こんな町並みだったんだろうか。
ネネが懐かしいと思うということは、
記憶のどこかに、こんな古びた朝凪の町があるからだろうか。
ネネは深呼吸する。
潮の近いにおいがした。

ネネは線を辿って歩く。
不意に、ボールが車道に転がった。
ボールを追う幼い子ども。
やってくる車!
「危ない!」
ネネは叫んで飛び出した。
子どもをかばって…
瞬間ネネは目を閉じる。

しゃきん!

金属の音がした。
ネネはしばらく目を閉じていた。
車の衝撃もなければ、
痛みもない。
ネネは恐る恐る目を空けた。
そこには、ボールも子どももいなかった。
車もいない。
ネネはぼんやり立ち上がった。
「危なかったね」
聞いたことのある声がする。
振り返ると、そこにはかすり着物の鋏師がいた。
背中に背負うくらいのオオバサミを、鋏師は得意げに鳴らした。
しゃきんしゃきんと、大げさな金属の音がする。
さっき聞いた音は、多分それだとネネは思う。
「一体何があったの?」
ネネはたずねる。
何にも起こっていないわけはない。
「レッドラムの線にかかりかけてたよ」
「レッドラムの?」
ネネは問い返す。
聞いたことのある言葉だが、実感したものではない。
「辿っている線とは別に、絡めて心にショックを与える線だと思って」
「心に、ショック」
「うん、だから見えたレッドラムの線だけ断っといた」
「それがさっきの鋏の音なのね」
「うん、そういうこと」
鋏師は説明すると、商売道具の鋏を背負った。

『一体何が見えていたのですか』
遅れてドライブがたずねる。
「幼い子どもがボールを追って、車にはねられそうになってた」
ネネは説明する。
『見えなかったのです』
「そうなんだ」
『ネネが線を無視して走り出したので、どうしたのかと』
「ごめんね」
『まぁいいのですけど』
ドライブなりに理解したらしい。
『ネネの心が線から離れると、ネネは線から離れてしまいます』
「そうなの?」
『そうなのです』
「じゃあ、さっきの車の事故も?」
『ネネの心をネネの線から離そうとしていたのかもしれません』
「そっか…」
『そして、ネネの心に何らかのダメージを与えるのかもしれません』
「それが、レッドラムの線?」
『おそらくです』
ネネはなんとなく理解する。
レッドラムの線は、心に入り込んで、利用するのかもしれない。
それは気のつかないところで組み込まれているのかもしれない。
ネネは知らないうちにレッドラムの線を辿り、
さっきの事故でダメージを受けるところだったのかもしれない。
鋏師が断ってくれたから何もないようだが、
心で見た事故と同じように、身体もダメージを受けて、
「悪ければ死んでいたのかもね」
ネネはつぶやく。
『そうかもしれません』
ドライブは肯定した。
ネネはそっと震えた。
何かが線を辿るネネを攻撃しているのかもしれない。
そんなことを思った。


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