普通の家庭


「ネネー」
母が呼ぶ声がする。
「今行くー」
ネネは大声で答える。
「じゃあドライブ、行ってくるから」
ドライブはうなずいて、無駄箱一号の陰に隠れた。

ネネは渡り靴を脱いで、階下へと降りる。
何も言わずに玄関に渡り靴を置いて、
何も言わずに食卓へつく。
目玉焼きが焼きあがっている。
「あらネネ、起きたならそういえばいいのに」
ミハルが不満そうに口を尖らす。
「いいじゃないか」
マモルがゆったりと反論らしいものをする。
「そう、いいのいいの」
ネネはこれ幸いとマモルの言葉に乗る。
「それで、なにをしていたんだい?」
マモルがゆったりと問いかける。
ネネは一瞬言葉を失う。
「あー、うー」
「あなた、ネネが困ってるじゃない」
ネネの前に、ミハルの目玉焼きが出される。
「心配するようなことしないでね」
ミハルが言うと、マモルは少しだけ不満そうな顔をした。
「ネネがどこぞとも知れない馬の骨にたぶらかされてると…」
「はいはい、ネネはそんなことないから大丈夫よ」
「ミハル、僕の気持ちもわかってくれよ」
「はいはい。ネネ、さっさと食べちゃいなさい」
「ミハルー!」
マモルの泣き言を遠く聞いて、ネネは朝ごはんを済ませた。

父親はこんなに泣き言を言う人だっただろうか。
いつも遠くで何かを言っていた人の気がする。
いつも遠くの人。
父親はこんなに遠くだっただろうか。
昔はきっと、もっと近くだった気がする。

「ごちそうさま」
ネネが食卓を立つ。
「ネネ、ミハルに言ってくれ」
マモルはまだ何かを言おうとしている。
「ちょっと気になる人ならいるよ」
「ほら、ネネには気になる人が…」
一拍の間の間に、ネネは自分の部屋に駆け上がる。
「ネネー!」
マモルが悲鳴のような声を上げる。
ネネは心で舌を出した気分になる。
うそじゃないけど、まだ多分うそ。
心のそこから気になるわけじゃない。
でも、なんだか気になる人。
ネネは自分の部屋に入って、鞄をひったくるようにして、階下へ降りる。
「ネネ、説明しなさい、お父さんには知る権利が」
「遅刻するからもう行くよ」
「ああ、はい…」
マモルは気おされたように引き下がり、
再び気を取り直すのは、ネネが出て行った後だ。
ネネは薄く微笑みすら浮かべて、
いつものバスに乗った。

家族ってなんていいものだろうとネネは思う。
マモルは実は心配していたのだ。
ミハルも心配しているのだろう。
それがとても心地いいものであり、
それがとても大切なものだと思う。
バスに揺られながら、ネネは外を見る。
こんな普通の家族がいっぱい集まって、
浅海の町は出来ている。
普通なのだ。ネネの家庭も、そのほかの家庭も。
子どものことを心配したり、
ご飯を作ったり、
成績で云々あったり。
普通なのだとネネは思う。
それはとても、恵まれているのだと思う。
この国の普通。
それはとても恵まれているのだ。

ネネはバスに揺られ、
程なく、いつものバス停に着く。
バスを降りると、学校が目の前にある。
普通どおりにネネは学校に向かう。
光に吹き飛ばされたりしないだろうか。
心の奥底でだけ、ちょっと怖れて。
ネネは歩く。
そして、いつものように学校の前にやってきた。
普段どおりじゃないかとネネは思う。
怖れることなんて何もないと。
それでも心は警報を鳴らしている。
渡り靴は、かんかんとなっている。
学校に何かあるのだ。
かんかんなる渡り靴をそのままに、
ネネは昇降口にやってくる。

「よう」
ネネにボソッと声がかけられる。
ネネはその声の主を知っている。
久我川ハヤトだ。
「なに?」
「教室に入れない」
「は?」
ネネは大きく問い直した。
「佐川様を信じないと、入れないそうだ」
「なにそれ」
「行ってみればわかる」
ネネは靴を履きなおして教室に向かう。
一体何が起きたのだろう。


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