水の底
ネネと勇者、器屋と鋏師で屋上から下りてくる。
「上だ!教主様のお言葉があったんだ!」
そんな声がして、ばたばたと教団の人間が上がってくる。
ネネたちには目もくれず、
歌を歌っている屋上を目指している。
銃声は聞こえない。
教主様は神になられる。
そんな歌を歌っている。
ネネたちはゆっくりと階段を下りる。
踊り場についたとき、
「待って!」
女の声がかかった。
屋上へ通じる仰々しい扉を背に、
辻が立っていた。
「あなたたちは救われなくていいの?」
辻が問いを投げかける。
ネネは辻を見上げた。
「辻さんはどうなの、救われると思うの?」
「わたしは…救われなくてはいけない」
ネネは知っている。
辻の家族は全部死んでしまって、帰る家もない。
「辻さん、あたしは」
ネネは辻を見据えながら話す。
「辻さんがどうすれば救われるかがわからない」
ネネの本心だ。
全てを占いの代価にしてしまった辻。
辻は多分恵まれた環境だったとネネは想像する。
家族がいて、笑顔もそうでないこともいっぱいあって、
家を中心にいろんなことがあって、
辻はそれを空気と感じるほどに恵まれていた。
辻は空気を差し出してしまった。
今の辻は窒息をしそうな、
冷や水の中に放り込まれたような。
空気がなく、守ってくれるものもなく、
体温と酸素がどんどんなくなるような、
辻はそういう状態なのだ。
光る球体のそばにいることは、
教団の中でも多分認められたものが行くのだろう。
神官のようなものだろうか。
そして、光る球体は教主の一部に過ぎなかった。
まがい物だった。
辻は裏切られた。
どうでもいいことをしていた。
全てを失って、空気と温度を取り戻そうとして、
道化を演じていたに過ぎなかった。
「あたしはどうすれば…」
辻は言葉を続けられない。
救いなら、教主が神になればみんな救われるといっている。
辻はそれを認められない。
偶像は破壊された。
それでも空を見て歌えるほど、辻は強くない。
「…どうすれば救われるんだろう」
辻はネネを見る。
目を開いたまま、辻は涙を流す。
冷たい水の底にいるような辻。
水の底では涙は見えない。
辻やネネの横を、歓喜する信者が屋上へ向かう。
歌が聞こえる。
教主をたたえる歌を。
辻の家族の命を代価に食べた教主を。
辻はネネの上にいるはずなのに、
扉の前に立ち尽くす辻は、深い深い水の底でおぼれているようだった。
手なんて届かない。
言葉も消えるような水の底。
辻の心は沈んでいる。
たとえ、これからの辻の生きていける財産があったとしても、
辻はそれで生き返れるものじゃない。
家族が死んだときに、辻の空気もなくなったのだ。
帰るところはない。
家も、笑顔も、当たり前も、ない。
ネネには想像もできないこと。
当たり前の家族があっという間になくなること。
教主は、多分辻を占って代価を得た彼女。
ネネはおぼろげにつなげて考えている。
彼女しか、こんなことをしない。
ネネの脳裏で彼女が微笑む。
何もかもを奪ってなお、欲しがっている彼女。
もっと代価を求めるのだろう。
そのために浅海の町で、わざとおおごとにしているのだろう。
彼女が求めているのは理の器。
運命さえ変えられる、多分装置。
これ以上彼女は何を求めているんだろう。
「どうすれば、私は救われますか」
辻は涙声で続ける。
ネネは答えられない。
辻は差し出すものは差し出してしまったのだ。
「教主様は、私をどこに導こうというのですか」
教主の導きで辻は屋上にいた。
辻はどこに行けばいいのだろう。
どうすれば救われるのだろう。
「おりておいでよ」
ネネはそんな言葉をのせた。
「そこからおりよう。それから考えよう」
辻は戸惑い、思いをめぐらす。
やがて、辻が階段を下り出す。
一歩一歩確実に。
それは辻が冷たい水の底から上がってくる兆し。
教主に導かれた場から降りてくる。
これは辻の大事な一歩だと、ネネはそんなことを思った。