分厚いその本
やかましい目覚ましの音がする。
彼は布団から、もそもそと手を伸ばすと、
器用に目覚ましをオフにした。
「みどりー」
家の中で女性の声がする。
「お母さん、今日は早くテニス行くからねー」
「んー」
彼は布団でもぞもぞとした。
そして、彼、風間緑はしばらくして、布団から起き上がった。
壊れた時計は布団の中にある。
緑はそのことに、ひどく満足した。
シャワーを浴び、適当な朝食。
大学の講義は適当なものがあったな、程度。
緑は着替えと準備を終え、うんと伸びをする。
太陽がまぶしい。
緑色がまぶしい。
夢か現かは知らないが、
どちらも充実していることが、緑を上機嫌にさせた。
表側の緑。
裏側のタム。
記憶は少しだけ共有している。
全部が全部でない気もするが、
そのうち一緒になるのかもしれない。
緑は家の戸締りと火の元確認をすると、大学へと向かった。
壊れた時計はポケットの中にある。
タムと緑は裏表一体かもしれない。
混ざりきったらどうなるだろう。
緑は難しいことを考えるのをやめた。
代わりに、約束を一つ思い出す。
ケイと食堂で話す約束だ。
皆川ケイ。そういえば知り合ったのは昨日だ。
何日もいろいろなことをしている気がする。
裏側の世界に行っている所為だろうか。
一つ一つ思い出しながら、緑は大学のキャンパスを歩いた。
「そういえば」
裏側の世界で酒精と呼ばれるものがある。
緑はおぼろげに思い出した。
「酒精って、お酒だよね」
ぶつぶつつぶやきながら、緑の足は、図書館の前で止まる。
「お酒の本があれば調べられるかな」
緑はぼんやり図書館を見る。
ひとりで、うん、と、うなずくと、緑は図書館に入って、
しばらくして、分厚い本を借りて出てきた。
昼前の食堂。
食事取る学生がまだピークになる前。
緑は二席、席を取ると、
分厚い本を読み解きにかかった。
『世界の名酒事典』
最新版を借りてきた。
確か、裏側の世界でもらった銃弾は、ウォッカ…
おぼろげな記憶を頼りに、緑はページをめくる。
つづりだけでも思い出せれば。
緑は一つ一つ見ていくが、
これ!というものになかなか会えない。
緑の右に、気配。
「何読んでるのよ」
ケイだ。
「夢の続きを探してました」
緑はぼんやりと答える。
「こっちが続き夢の話する前に、そっちで夢の続きを探してるわけ?」
「そういうことになっちゃいますね」
「で、なに、ウォッカを見てたの?」
「あ、はい」
ケイは緑の取ってくれた席に座る。
「ウォッカは、癖がなくて強い。ジュースとかと相性いいわね」
「ふぅん…」
「スミノフとか、スピリタスとか、有名どころはたくさんあるしね」
「え、え」
「なによ」
ケイがいぶかしむ。
「今、なんと言う銘柄を」
「スミノフとスピリタス。スミノフは癖がないわね。あたし的には結構いい感じ」
「ええとスミノフ…」
「これ」
ケイが先に見つけ、指差す。
ボトルの写真がある。
探していた右と左の銃弾のつづりだ。
「えっと、もう一つ、すぴ…」
「スピリタス。世界最強のお酒。火気厳禁」
「飲めるんですか?」
「薄くして飲んだり。そのままはいろいろ危険ね。薄めると甘い感じがする」
「どれですか?」
「どこだったかしらね…ポーランドのウォッカだったかしら」
ケイは緑から分厚い本をひったくると、勝手にぱらぱらめくりだした。
「あった、スピリタス」
緑はボトルのロゴを見る。
間違いない、真ん中の銃弾のつづりだ。
「変人風間緑も、酒飲むのね」
ケイは分厚い本を緑に返す。
「飲むんじゃないんです」
「へぇ、じゃあどうするの?」
「噛み砕くんです」
一瞬、ケイが驚いた顔をした。
「いろんなこと考えるのね」
「まぁ…いろいろ」
「酒はいいわよ。戦える」
「守るために使いたいですね」
「酒で守るの?」
「そんなイメージです」
「風間は、すぐ酔いつぶれそうなイメージ」
「ひどいなぁ…」
ケイは、にやりと笑った。
「きっと君は、夢であたしと同じところにいる」
「え?」
「酒で守って見せなさいよ。それと」
「それと?」
「明日も食堂で会議!」
緑に拒否権はなかったが、
それでもいいやとぼんやり思った。