声が聞こえる


タムは落ちていく。
ベッドを離れ、アジトを離れ、清流通り三番街を離れ、
雨恵の町を離れていく。

彼は目を閉じている。
ためしに開いてみる。
雨恵の町は、はるかかなたに行ってしまったらしい。
もう、見えない。
影も形も見えない。
夢だったのだろうか。
彼は自問する。
みんないたじゃないか。
子守唄も聞いたじゃないか。
それが全部夢だったら?
この空間で見ていた夢だったら?
彼は、考えを放棄した。
どちらでもいい、と。
ただ、黒い目の彼女を守りたいと。
たとえそれが夢だとしても、自分の思ったことをしたいと。

暗いような明るいような、
空間がよく見えない。
それでも、悪い空間とは思わなかった。
いつもの、どこかへ行くときに通る空間だ。
彼はそう認識している。
ここに名前は特にない。
名前すら無意味な空間なのかもしれない。
彼は彼。
空間は空間。
どこかと、つながっている。
どこかで、つながっている。

壊れた時計が、生真面目に刻んでいる音。
長針短針秒針が、好き勝手に回っている。
彼は身を丸めた。
落下しているような、浮遊しているような感覚。
さざなみの音がする。
さわさわ…
流れが少しだけ波打つような音。
彼の刻みの音と、
彼とつながっている刻みの音。
鼓動かもしれない。
彼の鼓動と、彼を包んでいる鼓動。
そうなのかもしれない。

彼は身体を丸めたまま、手を伸ばしてみた。
あたたかい感じがする。
何かに包まれているのかもしれない。
(もうすぐね)
そんな声がさざなみから聞こえるような気がした。
彼をなでるような感覚。
心をなでるような、心地よさ。
(あなたに会えるのを楽しみにしてる)
誰だろう。
この声は誰だろう。
女神の声だろうか。
時計を壊した、女神の声か。
彼は声に安心した。
彼は再び心をなでられる。
水の中にいるような、
柔らかいものに包まれているような、
彼を包み込む世界。
女神が守っていてくれるのかもしれない。

やがて、彼の空間の中、
旋律が聞こえた。
どこかで聞いたような。
どこで聞いたのか、わからなかった。
さざなみの合間合間に聞こえる旋律。
誰が歌っているのだろう。
やっぱり女神だろうか。
何のために歌っているのだろうか。
やっぱり、何かを守りたいんだろうか。

彼はゆらゆらと揺れる。
安心できる、空間の中。
彼は丸まって、揺られる。
ゆっくりと、揺られる感覚。
彼はどこかにつながっている。そう感じている。
彼は揺られる感覚に、微笑みすら浮かべた。
(ねむっているのかしら)
女神と思われる声がする。
心をやんわりなでられる。
(もうすぐだから)
何がもうすぐなのかはわからない。
けれども、いとおしそうに、本当にそんな風に、
心が幾度もなでられた。

彼を包むように、彼の中に響いてくる。
さざなみが聞こえる。
刻みとさざなみと、何かに包まれる中、
彼は切り替わる。
いつものように、切り替わる。
居心地のいい世界から、彼は実体を持つ。
揺らめく世界から、ほかの世界を目指す。
タムから、リタへと、切り替わる。
ある程度記憶がある。
両方の記憶が。
リタは、ゆっくりクロックワークの狭間を目指す。
表側と裏側の世界の間。
ゆっくり、そちらを目指す。
錆色の町が見える。
エバと見た町だ。
タムであったときの記憶が、そう言っている。
境界を越えてきたのだ。
彼はタムであり、リタだ。
記憶をどうにか共有できている。
世界をつなぐ、そんなことも言われていた。
リタは目を閉じる。
蒸気を感じる。
錆色の町をすり抜けて、切り替わったリタは、リタの身体に宿る。

リタは目を開いた。
そこには、いつものリタの部屋があった。


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