壊れていない時


やかましい目覚ましの音がする。
彼はもぞもぞ動くと、その目覚ましを器用に止めた。

彼は、布団でうずくまる。
何かを抱え込むように。
ここは、居心地のよかった世界に似ていた。
そんなことを思った。
(おかあさん)
彼は声に出さずに、呼びかけた。
目を閉じ、刻みを感じようとする。
お母さんの刻みは、もう、感じない。
代わりに、規則正しい刻みを感じる。
ああ、壊れた時計…
彼はもぞもぞ動き、いつもの壊れた時計を探す。
その間に朦朧とした意識は、覚醒に向かう。
胸付近をごそごそすると、記憶に違わない感触。
「…あった」
彼はボソッとそう言うと、起き上がり、壊れた時計を見た。
「あれ?」
壊れた時計は、壊れていない。
当たり前の時を刻んでいる。
念のため、目覚まし時計と見比べる。
秒針がちょっとずれているくらいで、普通の時計になっている。

彼…風間緑は、ため息をついた。
壊れた時は、もう、ここにはない。
世界が一つになったときに、内包されたんだろう。

世界が一つになった。
緑の内側に、世界がある。
雨恵の町も、錆色の町も、
母の胎内にいた感覚も。
全部、緑の内側にある。
緑は生まれなおしたのか。
全ては生まれる前のことなのか、
生まれたあとのことなのか。
緑は判別つきかねた。
雨恵の町も、錆色の町も、
きっと今、緑の中で普通に動いている。
普通に動いていながら、表側の世界にもいる。
それが多分、世界が一つになったということなのだろう。

緑は、普通に動く懐中時計を机の上に置いた。
窓を開ける。
風が入ってくる。
寡黙な風だ。
「おはよう」
風に声をかけてみる。
空気の動きは、何も答えない。
そう、この世界の風は、あんまりしゃべらない。
影もしゃべらないし、女神もどこにいるのかわからない。
太陽にいるだろうか。
緑は空を見上げる。
明るい太陽と、のんきな雲がある。
今日は晴れそうだ。
緑はいつものように寝巻きに着替えている自分を確認する。
寝巻きも布団もいつの間にかそうなっている。
今日からは、ちゃんと自分で意識してやるんだろう。
そんなことを考えた。

緑は目覚まし時計を見る。
お昼まではまだ時間がある。
ケイとの約束の時間を守ればいいし、
緑は身だしなみを整えることにした。
「シャワー浴びよ」
緑は扉を開いた。
そこは風間家の廊下につながっていた。
もう、別の世界へとはつながないように思われた。
さびしくもあり、そうであるのが当然のような気がした。

壊れた時は、緑の中にある。
少年として走り回った記憶も、経験も、感覚も、
全部内側にある。
今、緑は一応青年で、
さえない青年なりに、日々を暮らしている。
シャワーの水は、雨恵の町の、あの部屋のように、上から降ってくる。
タムとして浴びるのとは、少し意味合いが違う。
ただの寝癖直しみたいなもの。
ついでに寝汗も流すようなもの。
命の水を流すのとは違う。
蒸気を浴びるのとも違う。

緑は髪をタオルだけで乾かして、
身支度をある程度整える。
一番いい服は着たから、そのくらいの服…
緑色のジャケット、白のカットシャツ、黒のパンツ。
こんなものかと適当に見繕う。
どこかで着たような気もした。
記憶がまぜこぜになっているのかもしれない。
「今日はどこでランチを食べよう」
緑は手早くパソコンを起動させる。
検索をかけて、口コミを元に絞る。
ハンバーガーとかでいいと言うかもしれないけど、
デートかもしれないんだから、ちょっと気合を入れたかった。

開け放たれた窓から、
朝日が差し込んでくる。
カーテンはくるくる踊り、
緑はケイのために検索する。
彼女の喜んだ顔が見たいから。
驚かせたり、喜ばせたり、とにかく彼女のいろいろが見たい。
緑は頬杖をついた。
やっぱり、ケイのことが好きになって、
そして、いとおしいんだろう。
再確認する。

緑はある程度検索を終えると、
朝ごはんを食べに、台所へ向かった。


次へ

前へ

インデックスへ戻る